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Showing posts from December, 2017

2017年12月18日 礼拝説教 「大きな喜びを告げる」

2017 年 12 月 18 日礼拝説教 「大きな喜びを告げる」 ルカによる福音書 2 章 8 節~ 12 節 8節                   その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9節                   すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10節              天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11節              今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12節              あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 身近な人に大事な話があると、だれよりも先に自分に知らせて欲しいと思うのはごく自然な気持ちです。関係が薄い人も知っているのに自分がまだ知らされていないと、「どうしてもっと早く言ってくれなかったのか。」と怒りだす人がいるのはそのためです。ユダヤ人が何百年も待ち続けたメシア、救い主であるダビデ王の子孫が生まれたのであれば、当然のこととして真っ先に知らせを受けるべき人たちがいました。しかし、イエス様がお生まれになったのに、首都エルサレムにある神殿を司る大祭司とその一族や、政治を司るヘロデ王とその側近たちの耳に、メシアの誕生についての情報は一切入りませんでした。 不思議なことに、その事実を知ったのは、現在のイラクに当たるメソポタミア地方に住む、天文学と星占いを組み合わせたような学問を研究している外国人でした。「東の国でその方の星を見たので拝みに来ました。」と言って、エルサレムにいるヘロデ王と、その取り巻きを大変困らせました。空に輝くあの星はだれにでも見えたはずなのに、それを気に留めるユダヤ人は一人もいませんでした。 それよりも少し前のこと。ユダヤ地方で野宿をしながら、羊の番をしている羊飼いたちがいました。羊の持ち主だったとは限りません。貧富の差が激しかったこの頃、持ち主は家でぐっすり寝ていたかもしれません。貧しい、雇われの身として、徹夜の番を任されていたと考えても良いでしょう。 無学な農業労働

2017年12月11日 礼拝説教 「もう泣かなくても良い」

2017 年 12 月 11 日礼拝説教 「もう泣かなくても良い」 ルカによる福音書 7 章 11 節~ 17 節 11節              それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 12節              イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 13節              主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 14節              そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 15節              すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 16節              人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 17節              イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。  言葉で表現できないほど、辛くて悲しい体験をした人に会う時、何と言えば良いのでしょうか。「大変だったね!」とか「辛い気持ちはよく分かるよ!」とか、ありきたりのことを言うと、相手の機嫌を損なうことさえあります。「大変だった?気持ちが分かる?大変どころじゃないわよ!こんな辛い気持ち、あんたなんかに分かるか!」 このように、不快な気持ちを言葉にしてはっきりぶつけてくる人もいれば、態度だけで表現する人もいます。しばしば、静かに、黙ってお辞儀するか、親しい相手なら、何も言わないでギュッと抱きしめた方が良い場合があります。  ガリラヤ湖の畔にあるカファルナウム村で起きた百人隊長との一件の直後、イエス様は湖を離れ、少し内陸にある、故郷のナザレの南方にあるナインという町に向かいました。弟子たちも一緒でしたが、相当数の「おっかけ」もいて、にぎやかな集団となって移動していました。ナインの町の入り口に差し掛かったところ、全く違った雰囲気の集団とばったり出会いました

2017年12月6日 礼拝説教 「本当の権威の所在」

2017 年 12 月 6 日礼拝説教 「本当の権威の所在」 ルカによる福音書 7 章 1 節~ 10 節 1節                   イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 2節                   ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 3節                   イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 4節                   長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 5節                   わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 6節                   そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7節                   ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 8節                   わたしも権威の下に置かれている者 ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9節                   イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 10節              使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 ローマ軍の力はその百人隊長にあると言われるほど、この階級の軍人たちの評判は高かったです。中間管理職に当たる位で、家柄や出身地とは関係なく、なれるのは勤務態度の優れた、真面目な軍人だけでした。新約聖書に登場する百人隊長は皆、良い

2017年11月27日 礼拝説教 「誤魔化しは必ずバレる」

2017 年 11 月 27 日礼拝説教 「誤魔化しは必ずバレる」 ルカによる福音書 6 章 43 節~ 49 節 43節              「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 44節              木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 45節              善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 46節              「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47節              わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48節              それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。 洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49節              しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」 1995 年 6 月 29 日の朝、韓国のソウル市内にある、業界売り上げナンバーワンのデパートで、外観が立派なサンプン百貨店の 5 階の天井にひびが広がっているのが発見されました。専門家を呼ぶと崩壊の危険性があるとの警告を受けました。ひびが更に広がり、大きな音が聞こえ、お昼ごろに役員会が開かれ、閉店措置を検討しました。その日はお客さんの数がとても多く、売り上げを確保したかった経営者は営業を続けることにしました。夕方の 5 時になり、 5 階の天井が崩れましたが、閉店時間が近いという理由から、避難指示を出しませんでした。屋根が崩れ、店内の支柱が倒れた 5 時 52 分やっとビルの避難指示が出ましたが、 45 秒以内にビル全体が崩壊しました。 中に閉じ込められた人たちの内、 502 名が亡くなり、 1,500 名以上は身動きが取れなくなりました。原因は地盤不良、土台の不備、劣悪なコン

2017年11月20日 礼拝説教 「あら捜しは愉快なもの?」

2017 年 11 月 20 日礼拝説教 「あら捜しは愉快なもの?」 ルカによる福音書 6 章 37 節~ 42 節 37節           「 人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38節              与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 39節              イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40節              弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 41節              あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42節              自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 はっきり言って、悪口を言い合うのは楽しいことです。「 A 君は立派だね。」とか、「 B さんには本当に頭が下がるね。」とか、そのような話をすると、場の雰囲気が今一つ盛り上がりません。下手すると、皆に褒められている A 君とか B さんに比較されているような気になり、暗に「自分はその人に及ばない。」と言われているようなが気がして不愉快になる人もいます。 その一方、「 A 君のあの態度にはむかつく。」とか「 B さんと一緒にいると本当にイライラする。」とか、そのような話をすると、集まっている人たちが皆、楽しそうな顔をして話に乗ってきます。特に、付き合って行くのに困り果てて、他の人も同じように困っている事を耳にすると、急に気持ちが楽になり、このような話ができる仲間がいて幸せだなと思う事さえあります。不満の一致で結束

2017年11月13日 礼拝説教 「世間並では物足りない」

2017 年 11 月 13 日礼拝説教 「世間並では物足りない」 ルカによる福音書 6 章 32 節~ 36 節 32節              自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33節              また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34節              返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35節              しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36節              あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。 」 愛してくれる人を愛し、良くしてくれる人に良いことをし、返してくれる人に貸す。世間並みのことをして人様に迷惑をかけない。一般論としてこれさえできれば、人間として合格点をもらえます。国同士の付き合いを見ても同じです。仲良くしてくれる国と仲良くし、有利な条件で商売してくれる国と貿易協定を結び、気が合う国と軍事同盟を結び、歯向かう国に爆弾を落とす。これさえできれば、国際社会では立派な先進国として認めらます。 イエス様はこのことをよく知っていました。「目には目。歯には歯。 」 を徹底的に実行する中東社会に生きていました。しかし、この考えがいつまでたっても悲劇の連鎖を生むことをも知っていました。「人並を続けるだけでは人類に進歩がない。人の務めはもっと高い水準を狙うことにある。神様は恩知らずな人にも悪人にも情け深い。この情け深い神様の子供になりなさい。悲劇の連鎖を断ち切る方法はこれしかない。」イエス様はこのようにして、当時の人たちに訴え、現代の私たちにも訴えています。     明治から昭和の初期にかけて日本は何とかして西洋列強に追い付き、徹底した近代化と富国強兵政策の実行に成功しました。同時に、近代化の進んだ国が、遅れて

2017年11月6日 礼拝説教 「最も過激な教え」

2017 年 11 月 6 日礼拝説教 「最も過激な教え」 ルカによる福音書 6 章 27 節~ 31 節 27節              「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、 あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28節              悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29節              あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30節              求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31節              人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 「奴にいやしめられた。けなされた。馬鹿にされた。傷ついた。  そんな奴に勝つ方法はただ一つ、十字架の愛しかない。  心の底から傷ついた。打ちのめされた。  自分を見たら情けなくて眠れなった。  そんな自分に勝つ方法はただ一つ、十字架の愛しかない。  裏切り、罵られ、鞭打たれ、十字架につけられてまで、  私のために死なれた御方は、奴のためにも死なれたのだから。  十字架の窓から世の中覗いたら、すべて愛で贖われている。  命をかけて奴を愛します。祝福の祈りをもって。  世に勝つ最大の武器は愛。十字架の愛しかない。  世に勝つ最大の武器は愛。十字架の愛しかない。」 これは先月の 23 日の礼拝で歌ってくださった、三上勝久さんの歌詞の一つです。今から十七、八年前、髪が黒くて、今よりかなり恰幅の良い三上さんが東奥義塾にやって来て、今読み上げた歌詞の歌を歌ってくれました。会社を立ち上げようとした時の体験に基づいて書いたと言っていました。以前勤めていた会社が倒産した時、これからも必ず応援してやると言って励ましてくれた人たちが多くいました。しかし、いざ、自分の会社を作ろうとした時、その同じ人たちが、倒産した会社の元職員との取引はやめた方が良いと周囲の人たちに言われ、全く相手にしてくれなかったそうです。 その時の悔しさを乗り越えるために、大きな力になったのは今日の聖書の言葉、「敵を愛しなさい。」だ

2017年10月30日 礼拝説教 「富んでいるのが不幸?」

2017 年 10 月 30 日礼拝説教 「富んでいるのが不幸?」 ルカによる福音書 6 章 20 節~ 26 節 20節              さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 21節              今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 22節              人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23節              その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 24節              しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。 25節              今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。 26節              すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」     今日の聖書の箇所は聞いたことがあるような、ないような気がする方が多いと思います。マタイによる福音書の 5 章から始まる有名な「山上の垂訓」の言葉によく似ています。しかし、マタイによる福音書は、心の状態を強調し、「心の貧しい人、柔和な人、心の清い人」が幸せになると言っています。ルカによる福音書は露骨に、お金があるのかないのかに焦点を当てます。幸せになるのは貧しい人。不幸になるのはお金持ち。  教会では、マタイの言葉が読まれることが多いです。牧師たちは、たくさんの献金をしてくれる、お金持ちの会員に気をつかっているのでしょうか。旧ソ連、中華人民共和国、ポルポト政権下のカンボジアでは、地主や金持ちが徹底的にいじめられ、財産を奪われ、強制収容所に送り込まれ、時には無残な死に方をしました。ルカに登場するイエス様は、そのような暴力的な手段による共産主義革命を勧めようとしていたのでしょうか。今日の言

2017年10月16日 礼拝説教 「貧しいのが幸せ?」

2017 年 10 月 16 日礼拝説教 「貧しいのが幸せ?」 ルカによる福音書 6 章 12 節~ 20 節 12節              そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 13節              朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。 14節              それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、 15節              マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、 16節              ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。 17節              イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18節              イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19節              群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。 20節              さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。 」   日本のような先進国に貧しい人はいないと言う人もいます。 1980 年代から、世界的に始まった社会主義の崩壊を招いた重要人物の一人として、イギリスのマーガレット・サッチャー元首相はとても有名です。多くの名言を残した方ですが、その内の一つを紹介します。 「現在のイギリスには経済的な要因による貧しさはない。あるのは人格の欠損による貧しさだけだ。」ひどい言葉だと言って非難する人も多かったですが、先進国にいながら貧しいのは不真面目な人、怠けた人、知恵がたりない人に限ると言いたかったようです。 貧困には様々な定義があります。食べる物も、着る物も、住む場所もないことを絶対的な貧困と言います。もう少し緩やかに解釈すると、学

2017年9月25日 礼拝説教 「奴隷解放の象徴」

2017 年 9 月 25 日礼拝説教 「奴隷解放の象徴」 ルカによる福音書 6 章 1 節~ 11 節 1節                   ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 2節                   ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。 3節                   イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 4節                   神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 5節                   そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」 6節                   また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。 7節                   律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。 8節                   イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。 9節                   そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」 10節              そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。 11節              ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。   日本で日曜日が休日になったのは明治 8 年、 1875 年のことでした。それまで、職人は一日と十五日に休む習慣がありましたが、国全体として、休日はありませんでした。日曜日が休日になったのは、キリストが復活した日曜日に仕事を休むヨーロッパの国

2017年9月11日 礼拝説教 「新しい革袋」

2017 年 9 月 11 日礼拝説教 「新しい革袋」 ルカによる福音書 5 章 33 節~ 39 節 33節              人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」 34節              そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。 35節              しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 36節              そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。 37節              また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 38節              新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 39節              また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」       この当時、ぶどう酒は、ガラスの瓶ではなく、動物の皮でできた袋に入れて持ち歩きました。発酵過程がまだ終わっていない新しいぶどう酒を入れると、発酵が続くので袋が膨張しました。固くなった古い革袋なら破れてしまう危険性があったので、この場合は、伸び縮みする新しい皮袋を使いました。  私の両親の世代が子供の頃、衣類の多くは初めて洗濯すると縮みました。今はそうならないように加工されていますが、昔は何度も洗って縮み切った布に、洗濯したことのない新しい布を継ぎ当てて洗うと、新しい布だけが縮んで布が破れてしまいました。  イエス様は、ケチをつけに来た人たちをかわすためにこの例えを用いました。対立関係にあるファリサイ派の弟子たちも、イエス様と友好的な関係にあったヨハネの弟子たちも断食しました。なのに、イエス様の弟子たちは断食する様子もなく、毎日