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2024年3月7日 終業礼拝 「見捨てられることはない」

2024 年 3 月 7 日 終業礼拝 「見捨てられることはない」 申命記 31 章7節~8節 7節         モーセはそれからヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。 8節         主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」 昨年の四月から毎週、月曜日の礼拝で、イスラエル人の奴隷解放と荒野での旅の物語、旧約聖書の出エジプト記から学んできました。古代文明の中で、ナイル川のおかげで洪水や干ばつの影響を受けにくく、浮き沈みの少ない、安定した豊かさを誇っていたのはエジプトでした。その国で奴隷生活を強いられたイスラエル人たちは、過酷な労働に苦しみながら、食べ物と飲み水に不足することはありませんでした。  エジプト脱出の主人公であるモーセは、神様からの命令を受け、エジプト人による束縛を振り切り、イスラエル人の出国を成功させます。共に目指すのは、乳と密が流れる約束の地で、彼らは気持ちを一つにして心を躍らせます。しかし、自由になったことを喜ぶ彼らは間もなく、そのことに代償があることに気が付きます。約束の国に行くには、水にも食料にも乏しい、荒野を渡る必要があり、エジプトで体験した食文化が恋しくなります。直面する状況に一喜一憂するイスラエル人は、指導者モーセに不満をぶつけ、奴隷だった場所のエジプトに戻ろうと言って騒ぎ立てます。 人は自由になって夢の実現に向かう生活に憧れます。しかし、ついに、待ちに待った自由が手に入ると、それを効果的に活用する方法を学ばなければならないことに気が付きます。理想を現実に移そうとすると、困難を前にして諦め、他人が敷いたレールに戻り、そのレールに乗ったまま人生を終える人が多くいます。 年老いたモーセは最後まで気力を失うことなく、いたって元気に過ごしました。しかし、約束の国にはついに足を踏み入れることなく、荒野で息絶えました。その時のモーセに与えられた唯一の慰めは、ピスガの山頂に登り、山の上から約束の国を見渡すことでした。最終目的を果たすことなく人生を終え

2024年3月7日 礼拝説教 「山頂まで行って来た」

  2024 年 3 月 7 日 礼拝説教 「山頂まで行って来た」 申命記 34 章 1 節~ 12 節 1節            モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、 2節            ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、 3節            ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。 4節            主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 5節            主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。 6節            主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。 7節            モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。 8節            イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。 9節            ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。 10節        イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、 11節        彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、 12節        また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。 公民権運動の活動家、キング牧師の“ I Have a Dream” 「私に夢がある」という題名のスピーチはとても有名です。「私に夢がある。いつか、人は肌の色ではなく、人格の強さで評価さ

2024年3月1日 卒業式 「次の代に託された夢」

2024 年 3 月 1 日 卒業式 「次の代に託された夢」 申命記 31 章 6 節 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」  子供が大人になるまでに通らなければならない道はとても長く、年月の数では、大人として過ごす時間よりはるかに短いとは言うものの、覚えてもいないほど小さい頃から始まる過程なので、これまでの十八年を振り返ると、一生分と思えるほどの思い出が詰まっていることと思います。今日は、生まれて初めての卒業式ではありません。成長の通過点として、とても大事だった小学校や中学校の卒様式もありました。しかし、その時は卒業したからと言って、これと言った自由が得られた訳ではありません。次の学校に進んでもいろいろな束縛があり、窮屈に思うことも多かったと思います。対照的に、この日の卒業式には決定的な違いがあります。経済的自立はまだ遠く、進もうとする世界にも様々な制約があるかもしれません。しかし、管理を受ける子供として過ごしてきた日々は、この日を境に終了します。 これからは、独自の存在として役に立つ人間になる必要に迫られ、同年代とほぼ同じことを学ばされてきた今までと違って、周囲の人たちと違うことを学び、自分にしかない専門性を極める過程が始まります。姿や恰好に制限がかかり、思うようにセンスを表現できなかった日々も終わり、だれにも強制されることのない、自分に良いと思う描き方ができる人生が始まります。その一方、進むべき道にコースを表示する物はありません。朝起こす人も、門限を強制する人もいなくなります。このような自由を手にする皆様には、多少の不安があるのも否定できないと思います。 昨年の四月から毎週、月曜日の礼拝で、イスラエル人の奴隷解放と荒野での旅の物語、旧約聖書の出エジプト記から学んできました。古代文明の中で、ナイル川のおかげで洪水や干ばつの影響を受けにくく、浮き沈みの少ない、安定した豊かさを誇っていたのはエジプトでした。その国で奴隷生活を強いられたイスラエル人たちは、過酷な労働に苦しみながら、食べ物と飲み水に不足することはありませんでした。  エジプト脱出の主人公であるモーセは、神様からの命令を受け、エジプト人による束縛

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

  2024 年 2 月 26 日 礼拝説教 「同行してくださる神」 出エジプト記 33 章 1 節、3節 ~4節、 12 節~15節、17節、34章1節 1節               主はモーセに仰せになった。・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3節               あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」 4節               民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12節          モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13節          ・・・どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」 14節          主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、 15節          モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17節          主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 34 章 1節               主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。 卒業式の最後に、「神ともにいまして」という讃美歌を歌って卒業生を送り出すのが東奥義塾の伝統です。歌詞の内容は、また会う日まで神様が共にいてくださるようにとの祈りです。「目には見えないが、間違いなくそばにいてくださる。」これは何千年も前からイエス様を信じて来た

2024年2月19日 礼拝説教 「真の愛国者」

  2024 年 2 月 19 日 礼拝説教 「真の愛国者」 出エジプト記 32 章 31 節~ 34 節 31節        モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。 32節        今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば …… 。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」 33節        主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。 34節        しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」 モーセの時代から千年以上たってからのことですが、イエス様は弟子たちに次のように言いました。「どんなことよりも、あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。」この世で生きている限り、良いこともあれば、悪いこともあります。しかし、人生の上がり下がりの中で変わらないのは、神様に愛されていることであり、その本の中に自分たちの名前が記されていることです。そこに自分の名前がある限り、何があっても大丈夫です。 聖書の中で、神様のこの本が最初に出て来るのは、今日読んだこの箇所です。モーセは自分の名前も、イスラエル人の名前も記されていることを知っていました。しかし、金の子牛を造り、それを拝んだイスラエル人の名前は今にも消されそうになっていました。「彼らの罪を赦してください」と必死に願うモーセは、自分の命よりも大事な物を差し出して言いました。「あなたの愛と救いを受けることができる人たちのリストから私の名前を消してください。その代わり、イスラエル人たちの名前を残してください。」 新約聖書を読むと、同じような事を言う人がいます。前にも紹介したパウロという人です。この人には人間として誇れる物がたくさんありました。しかし、イエス様の救いの恵を知ると、それまでの実績の数々をゴミほどの価値しかないと思うようになりました。そのパウロが気に留めていたのはモーセと同じように、イスラエル民族のことでした。いくら熱心にイエス様の救いについて伝えても、彼らはそれを受け入れようとはし

2024年2月5日 礼拝説教 「偶像崇拝の罪は重い」

2024 年 2 月 5 日 礼拝説教 「偶像崇拝の罪は重い」 出エジプト記 32 章 17 節~ 24 節 、 30 節 17節        ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、 18節        モーセは言った 。「これは勝利の叫び声でも敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」 19節        宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、 手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 20節        そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。 21節        モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、 22節        アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。 23節        彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、 24節        わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30節        翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。」 「そこまで怒る必要はあるだろうか。」そう思いながらこの話を読む人もいると思います。食べるなと言われた木の実に手を出しただけで、最初の人間の幸せな生活を決定的に終わらせ、金の子牛を拝んだだけで一つの民族を滅ぼすという神様は一体何物でしょうか。悪い事が嫌いで、罪を赦せないと言うのなら、今も続いている戦争犯罪や児童虐待などに目を向けるべきではないでしょうか。旧約聖書はこの「金の子牛事件」を、人を殺すこと以上に重い罪として扱っている

2024年1月29日 礼拝説教 「思い直す神」

  2024 年 1 月 29 日 礼拝説教 「思い直す神」 出エジプト記 32 章 7 節~ 16 節 7節            主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8節            早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9節            主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10節        今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 11節        モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 12節        どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 13節        どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 14節        主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。 15節        モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。 16節        その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。 新約聖書の神様は好きだけど、旧約聖書の神様は嫌いだという人もいます。禁じられた木の実を食べただけでエデンの園から人間を追放し、悪い事ばかりするその子孫を洪水で滅ぼすのは旧約聖書の神様。命を捨てるほ