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20204月8日 入学式 「わたしに学びなさい」

2019年4月8日 入学式 「わたしに学びなさい」
マタイによる福音書11章29、30節 29節わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたし に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られ る。 30節 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 大なり小なり、私たちは皆、成功者になりたいと願っています。成り行きで人生を過ごそうと思う人はいないと思います。私たち人間は「現在」という時間を犠牲にしてまで、満足の行く将来に向かう努力をすることの大切さを理解しています。だからこそ、義務教育を終えたばかりなのに、新入生の皆様は、新たな学びの場を求めてこの東奥義塾に集い、入学式の日を迎える事になりました。学ぶことは楽しいこととは限りません。学校案内に載る生徒は皆、笑顔で写っていますが、学びの成果が出るまで、辛い思いをも覚悟しなければならないことは、だれもがわかっていることです。
新約聖書時代のユダヤ人は師匠について学ぶことを「軛を負う」という言葉で表現しました。近代になって見かけることが少なくなった「軛」は、牛が牛車を引く時に首にかける器具のことです。速さでは馬が引く馬車には叶いませんが、二頭の牛の首に軛をかけて牛車を引かせると、安定した速度で、とても重い荷物を引かせることができます。ユダヤ人は貨車や農機具を引く牛の姿を、学習することの比喩として用いました。意志の強い人は独学で学ぶことができますが、効果的に学ぶなら、優れた師匠を探し出し、一定の束縛を受け入れ、じっくりと、長い時間かけて、実力を付けることに専念しなければなりません。
イエス様のような、宗教家の弟子になる人たちは、特に辛い思いをしました。長時間の断食と祈りを強いられ、それが済んだからも、食べ物について厳しい規定を守らされ、普段からも窮屈な思いをしているのに、特別な日になると更に多くの規制をかけられました。このような事をしないと神様に喜ばれないと教えられても、一般庶民の多くは「その軛が負いにくく、その荷は重過ぎる」と感じました。そのような社会環境に生きる人たちに、イエス様は「わたしの荷は負いやすく、私の荷は軽い」と言いました。
自分が「柔和で謙遜」だという人に謙虚さを感じないと言って、この言葉に疑問に抱く方もいますが、イエス様の真意は違うところにありました。一般庶民の日常生活の辛さがわかる人。融通が利かな…

2020年3月2日 卒業式 「光と輝く人」

2020年3月2日卒業式 「光と輝く人」
詩編34篇6節、8節 6節主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。 8節主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。
聖書にも武勇伝があります。その中で最も有名なのはダビデ物語です。少年ダビデは羊を猛獣から守り、巨人ゴリアテを倒し、成人して国王になり、エルサレムに都を築き、イスラエル国家の基を築きました。現代イスラエルの国旗の中央にあるシンボルはダビデの星です。しかし、後世の人たちの心を揺さぶる存在にまでさせたのは、ダビデの武功ではありませんでした。それはむしろ、弱さや過ちに真っ正直に向き合うダビデの内面的な葛藤が、旧約聖書のいくつもの箇所にさらけ出されているからです。
家族に虐げられ、忠実に仕えた主君にも裏切られたダビデはいつも、イスラエルの神を慕い求め、どんな時にも心の拠り所にしました。ダビデの人柄と、内なる思いの生々しい記録として残っているのは、作詞家でもあったダビデが書いた旧約聖書の詩編です。詩編を読む人には、良い時にも悪い時にも、純情で一途な思いを神に激しく訴えるダビデとの、心に迫る衝撃的な出会いが待っています。
 先ほど阿部宗教主事に読んでいただいたのもダビデの詩で、一生を通じて最も惨めな思いをした時に作詞した言葉からの抜粋です。命が危険に晒され、主君の敵の前で赤っ恥をかかされ、命からがらに逃れた直後のことでした。穴があったら入りたいと思うならこの時でしたが、ダビデは顔を上げて歌いました。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」いつも純粋な思いでイスラエルの神を愛したダビデの心を支えたのは、何があっても神様が傍に付いているという、揺らぐことのない確信でした。
 敵に隙を見せて妻子を奪われ、自暴自棄になった家来たちから殺されそうになった時、ダビデは「苦しんだが、その神、主によって力を奮い起こした。」と書いてあります。生死の境をさまよう多くの方々の励みとなった羊飼いの詩、23篇に次の言葉があります。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」27篇は次の言葉から始まります。「主はわたしの光、私の救い。私は誰を恐れよう。」周囲の人たちが伝染病に怯える中で書かれた91篇にも力…

2020年2月17日 礼拝説教 「一枚たりない」

2020年2月17日礼拝説教 「一枚たりない」
ルカによる福音書15章8節 ~ 10節
8節あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9節そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10節言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
高校生が一万円札を何枚も財布に入れて持ち歩くのは危険なことです。少なくとも、高価な買い物をしに学校に来る生徒はいないので、財布に入れるお金はせいぜい、数千円を限度にした方が良いと思います。
 しかし、仮に財布に一万円札が十枚入っていたとしましょう。気になるので一日に数回、その数を確認します。ある日、数えてみると九枚しかありません。「変だな」と思って数え直します。しかし、何回数えても同じです。一枚たりません。「これは大変だ」と、焦りの気持ちに襲われます。
ドラクメ銀貨。一般的にはドラクと言いますが、アレキサンドロス大王が地中海付近に広く普及させた貨幣のことです。現在のお金で言うと1万円くらいの価値がありましたが、今はコレクター向けのサイトで、数十万円の値段が付いて売りに出されています。
新約聖書時代のイスラエルでは婚約の証として、お婿さんになる人は婚約者に十枚のドラクメ銀貨をプレゼントしました。受け取った娘さんは、この銀貨を布のベールに縫い込み、出かける時は必ずかぶるようにしました。結婚相手が決まった、結婚の日を待っている女性としての身分を公にする意味がありました。
 十枚の銀貨に結納金の意味が含まれていたと思うと、一枚なくしたこの娘さんの狼狽ぶりはよく理解できると思います。婚約指輪をなくしたのに等しい焦りを感じたことでしょう。当時の家の屋内が暗かったので「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜しました。」
 見つかった時の喜び様は半端なものではありません。見つからない内は恥ずかしくて人には言えなくても、一度見つかったら有頂天になって皆に言いふらします。「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。」
 「まだ九枚あるから、一枚くらいはいいか。」とは思いませんでした。伴侶になる、一生に一度の誓いを立てる相手から、間違…

2020年2月10日 礼拝説教 「迷える羊は誰のこと」

2020年2月10日礼拝説教 「迷える羊は誰のこと」
ルカによる福音書15章1節 ~ 7節
1節徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2節すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3節そこで、イエスは次のたとえを話された。 4節「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5節そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6節家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7節言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
日本には2万頭の羊しかいませんが、世界には11億頭います。これは人に飼われている動物の中では、トップの座を占める牛の15億頭に続く数で、犬や猫よりも多いです。多くの国で、羊毛と羊肉の両面から人を支える羊は生活の必需品です。羊は外敵から身を守る手段がない、とても臆病な動物です。知らない人が近づけばすぐに逃げますが、信頼を置く羊飼いであれば、傍から離れようとしません。

出産の際に母親を亡くした子羊に、哺乳瓶からミルクを飲ませた経験がありますが、離れようとすると「メーメー」と鳴きながら必死について来ました。子羊から向けられた強い気持ちに応えたいという思いもありましたが、いつまでも付き合う訳には行かず、心は辛い気持ちでいっぱいになりました。
特殊な場合を除くと、ニュージーランドの羊は飼い主と深い絆を築くこともなく、あくまでも家畜として一生を終えます。しかし、新約聖書時代の中東では状況が違いました。羊飼いについて行かないと牧草があるところに行けないと知っていた羊たちと、名前をつけて個別に呼んでくれる羊飼いの間に、深い関係が結ばれました。
羊は本能的に他の羊について行く動物なので、まとまった行動をとり、群から離れることが少なく、迷子になると一匹ではなく、集団で行動することが多いです。しかし、なかには群れから離れ、勝手な行動をする性質を持つ羊もいます。囲いのない放牧の時代に、羊飼いはこのような羊に、特別に気を遣う必要がありました。
今日の聖書…

2020年2月3日 礼拝説教 「違いを作る人」

2020年2月3日礼拝説教 「違いを作る人」
ルカによる福音書14章34節 ~ 35節
34節「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 35節畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
湿気が原因で塩入れを振っても塩が出にくくなることがありますが、振った塩が塩っぽくなかったという体験をした人はいないと思います。そんなことがあったら、入っていたのは塩ではなく、違う物質だったと考えるのが普通でしょう。しかし、新約聖書が書かれた頃のイスラエルで使われた塩のほとんどは死海の沿岸から掘り出された岩塩でした。この塩には様々な物質が混ざっていたので、雨や湿気に晒されると塩化ナトリウムが溶け出し、塩分が入っていない物が残ることもありました。そうなった場合、「塩が塩気を失った」と言い、高価な物として重宝された塩が、役に立たない物として外に投げ捨てられることになりました。
塩がどれほど高価な物だったかを知る手掛かりは、ローマ軍の兵隊に支給された給料に見られます。塩漬けは食物の保存法としてとても重要だったので、現金ではなく、何があっても価値が変わらない塩が支給されることが多く、ラテン語の「塩」という言葉が、サラリーマンの「サラリー」の語源になったと言われています。今でも英語には給料泥棒を指して「もらっている塩に値しない」、“not worth his salt”という表現があります。
その他に、料理通であれば「一つまみの塩」の大切さがわかると思います。本の少しの塩を加えると苦みが抑えられ、甘味などの味が引き立ちます。いくら砂糖を入れても、塩を加えないと小豆は甘くならないし、喫茶店のマスターはココアに本の僅かの塩を入れてからお客様に出します。イエス様が言うように「確かに塩は良い物です。」 マタイによる福音書に同じような箇所がありますが、冒頭に「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉が付いています。これをヒントに今日の箇所を読み直すと、塩に例えられているのは私たち人間であることに気が付きます。塩気は人間の心に宿る良心のことで、塩気を失うのは、その良心が鈍ることを意味します。他の動物と違って、人間は自分や、所属する集団の行動に対して心の引っ掛かりを感じ、自己嫌悪感に苛まれることもあります。
このような気持ちは愉快な…

2020年1月20日 礼拝説教 「戦陣訓にも負けないイエス様の教え」

2020年1月20日礼拝説教 「戦陣訓の教えとイエス様の教え」
ルカによる福音書14章25節 ~ 33節
25節大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27節自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28節あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29節そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30節『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31節また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32節もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33節だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 二年半前に亡くなった妻の父親は、二十歳になるや否や、軍人として中国に渡りました。父は時々、その頃の思い出話をしましたが、暗記させられた兵隊の心得、戦陣訓の話をすることもありました。太平洋戦争が始まった年に東条英機が出したこの文書の大部分は、今の時代にも通用する道徳的な教えからなっていますが、次の内容も含まれています。原文ではなく、現代語訳を読みます。
「わが国は天皇国家である。天皇の軍隊の風紀と規律の神髄は、天皇に対する絶対服従を崇高な精神とする。進んで死を恐れず、艱難辛苦に堪え、ひとたび命令が下ると、喜び勇んで、生きて帰る望みのない場所に跳び込み、ひとたび死に場所を見つけたら、ある限りの体力、精神力をささげ切り、落ち着いて死ぬことを羽毛のように軽いものと考え、永遠に忠実で勇敢な兵士として名を残すことを武人としての最大の喜びとしなければならない。 君主への忠義と親孝行が一致することは、わが国にしかない特別な道徳の最も優れた点であり、国に対する忠義に厚い人たちは、必ずまた、親孝行を尽くす人たちでもある。自分の死…

2020年1月14日 始業礼拝 「演出家は満席にこだわる」

2020年1月14日始業礼拝 「演出家は満席にこだわる」

ルカによる福音書14章15節 ~ 24節

15節食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 16節そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 17節宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 18節すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 19節ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 20節また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 21節僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 22節やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 23節主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 24節言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』
一昨年の10月17日、さいたまスーパーアリーナで開かれる予定だった歌手、沢田研二のコンサートは開始直前に中止されました。理由はコンサート会場が満席にならないと知った沢田研二が出演を拒否したからです。キャンセル料やチケットの払い戻しで主催者の損失は4千万円に上るとされましたが、それ以上にがっかりしたのはわざわざ会場に駆け付けたファンの方だったと思います。イベントの主催者は常に満席を求め、「主催者発表」と聞くと、実数より多いと考えるのが一般的です。最近はこぢんまりとした結婚式やお葬式を好む傾向がありますが、世界のどこに行っても、人生の大切な節目に、大勢の人が集まらないと寂しいと思うのが人間の一般的な心理だと思います。
ニュージーランドで体験したことですが、一歳の孫が誕生日を迎えたフィジー出身の方から、誕生会の記念撮影にだけ入って欲しいと頼まれたことがあります。用事があって立ち寄っただけなの…