2020年7月17日 終業礼拝 「見えなくても神の国がある」
2020 年 7 月 17 日 終業礼拝 「見えなくても神の国がある」 ルカによる福音書 17 章 20 ~25節 20節 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 21節 『ここにある』『あそこにある』 と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 22節 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。 23節 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。 24節 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。 25節 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。 7 年くらい前までの 3 年間、私は中国に住んでいました。乞食が座る街角の傍を高級車が通り、富を公平に分配する共産主義社会とは思えませんでした。しかし、住宅事情にも医療制度にも改善が進み、政府が本気になって庶民の生活水準を高めようとしているという印象を受けました。民主的な選挙はありませんでしたが、共産党の組織を経由して民意を吸い上げるシステムがありました。私が教えていた学生たちのほとんどは共産主義青年団のメンバーで、生徒会活動のリーダーをしていたのはこの組織の幹部たちでした。 卒業間近になると、模範生と見られる学生は共産党入党の招待状を受けました。その数は 15 人に 1 人くらいでしたが、党員という身分を手にすると、公務員や政府系企業は特にそうでしたが、就職はかなり有利になりました。国家から人物の保証をもらったのも同然の身分なので、断る理由はないという意見をも聞きました。しかし、中には党の仕事や行事に関わることを大儀に思って辞退する人もいました。一党員として国の進む方向について発言できる権利が与えられる反面、党の理念に縛られることを窮屈に思う人たち