Posts

Showing posts from September, 2025

2025年1月31日 3学年終業礼拝 「勇気を出しなさい」

  2025 年 1 月 31 日  3 学年終業礼拝 「勇気を出しなさい」 ヨハネによる福音書 16 章 33 節 「 あなた方には世で苦難がある。 しかし、勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている 。 」 キリスト教との出会いを聞かれたら、「入学して気が付いたら聖書を持たされ、讃美歌を歌わされていた」と答える卒業生が多いと思いますが、教会に通っている日本のクリスチャンの多くは、「休ませてあげよう」というイエス様の言葉に惹かれ、心の安らぎを求めて通い始めたと言います。昔も今も、生活に困っている人は、心を落ち着かせるイエス様の優しいメッセージに惹かれてついて行きます。しかし、対照的に、周囲を固めるコアのメンバー、つまり、世の中を変え、神の国を実現させようとする実働部隊に、イエス様は最初に上げた、覚悟を促す、厳しい言葉を与えました。 毎日のように礼拝堂への入退場を繰り返した卒業生の皆様は、聖書にある十字架と復活に特別な意味があることに気が付いたと思います。この二つはセットになっていて、片方だけでは成立しません。キリスト教では、十字架の苦しみのない復活がなければ(苦難がある)、復活の希望がない十字架もありません(既に世に勝っている)。心の安らぎを得るのが出発点であっても、イエス様を信じる人のそれからの人生は、十字架と復活の狭間に立って過ごすものであり、甘ったれた人間にはお勧めできません。 信仰の話をしなくても、十字架と復活の原則はいたる所に見られます。人生の最初の一日を考えてみてください。誰も、自分の誕生の瞬間を覚えていません。仮に覚えていたら、トラウマとして残りそうで、記憶にないのは幸せなことかもしれません。出産はお母さんにとって大変なのは何度も聞かされてきました。しかし、誕生の主人公のである私たちにも大きな苦労がありました。住み慣れたお母さんの暖かいお腹から、狭い産道を下って冷たい外界に押し出されました。幼い私たちにとって、何と恐ろしい体験だったことでしょう。 出産は子供の人生の最初の受難であり、最初の十字架です。新生児の意見を聞けるなら、いつまでもお母さんのお腹にいたいと言うでしょう。どのような意味があって、誕生という苦行に耐えなければならないでしょう。今の私たちから見ると、その答えは明白です。誕生の先に光があり、成長...

2024年1月31日 3学年終業礼拝 「水の上を歩く信仰」

  2024 年 1 月 31 日 3学年終業礼拝 「水の上を歩く信仰」 マタイによる福音書 14 章 26 節~ 32 節 「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。 「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」 個人的に言うと、イエス様の奇跡物語の中で、一番引っかかるのはこの話です。イエス様は奇跡を行う力を、病人を癒したり、死人を蘇らせたり、お腹を空かせた人にパンを与えたりするために使いました。お金儲けをしたり、敵を倒したり、人の注目を集めたりするためには使いませんでした。公の活動を始める前のイエス様に、不思議な力があることに気付いた悪魔は、色々な手を使って、その力を悪用させようとしました。 その内の一つは、「高い建物から飛び降りて注目を集め、一瞬の内にスターになれ」という唆しでした。イエス様は与えられた力を、意味のない子供じみたショーのネタにするつもりはなく、きっぱりと断りました。神様から与えられた力を見せびらかすことなく大事にし、その使い方に慎重な姿勢を貫き通しました。 そのようなイエス様がここで何故、水の上を歩くようなことをして、弟子のペトロにも同じことをさせたのでしょうか。弟子たちをびっくりさせる目的のイタズラだったのでしょうか。この奇跡に一体、何の意味があったのでしょうか。私はこう思います。その時のイエス様は、弟子たちにわからない大事な事を知っていました。彼らと過ごせる時間は後わずかで、自分がいなくなってから、弟子たちがとても困難な目に合う事になっていました。 この場面を見たのは弟子たちだけで、他には誰もいませんでした。それから、一見は絶望するしかいないと思えるような現実に向き合うことになる彼らに、イエス様が教えて...

2023年1月31日 3学年終業礼拝 「ときが巡って結ぶ実」

2023 年 1 月 31日   3 学年終業礼拝 「ときが巡って結ぶ実」 詩編 1 編 3 節 「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡りくれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 「この木のリンゴは最高!」と言って自慢する農家の言葉を聞いて、そばにいる人は反論しました。「でも、まだ青くて小さいですよ。」農家は答えました。「それは収穫の時期がまだまだ先だからですよ。今の時期の出来栄えとしては最高!」 高等学校からの卒業を迎えようとする皆様にどのような時が巡ってきたでしょうか。お金で売れる物を生産したことがなく、これまでの努力のすべてが「これからの実り」への投資だと思うと、社会人生活への道のりはとても長い物です。皆様の教育はこれまで四つの段階を経て、進学する卒業生は五つ目の段階に進もうとしています。まずは幼稚園・保育園から始まりました。そこで家庭内の自分と違った集団の一員となり、社会生活の最も基本的なことを学びました。規則を守りながらご飯を食べたり、お絵描きをしたりしながら、他の子供と仲良く遊ぶことを学びました。 小学校で同じような学びの続きもありましたが、その他に文明社会の一員に欠かせない、読み書き算数の力を身に着け、書き言葉による意思の疎通と基礎的な計算ができるようになりました。義務教育は中学校で終わりました。卒業すると高等学校に進むのが常識だったので、義務教育の修了についてあまり考えなかったかもしれません。しかし、大人になってから中学校の教科書を読み返すとわかります。世の中で本当に役に立つ、必要不可欠な知識のほとんどは中学校の教科書に書いています。つまり、中学校で教えられたことをしっかり覚えていれば、高等学校に行かなくても社会人として何とかやっていけたということに気づきます。 では、高等学校に入ってから何を学んだでしょうか。中学校で身に付かなかったことを学び直す延長戦になった場合もあるでしょう。最悪のケースとして、社会が大人として受け入れてくれる十八歳になるまでの時間つぶしになったかもしれません。しかし、高等学校普通科教育の本来の意味は、その先にあるエキスパートや専門家を育てる大学や専門学校で学ぶための土台作りにあります。専門的な知識や技能を教える高等教育機関で学ぶなら、中学校レベルの知...

2022年1月31日 3学年終業礼拝 「変わりゆく世相に備えて 強くなりなさい」

  2022 年 1 月 31 日  3 学年終業礼拝 「変わりゆく世相に備えて 強くなりなさい」 ルカによる福音書 22 章 36 節 「・・・剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」 政治家は選挙の時に投票してもらえないと政界から追われるので、有権者の支持をとても大事にします。そのため、選挙演説で不快感を与えるかもしれない本音を隠し、万民に受けの良い話をしようとします。このような話は問題の本質を避け、深みのないものになる傾向があり、選挙以外の時に政治家の話を聞きたいと思う人はあまりいません。面白い話をするのは、当選するか否かをあまり気にしていない政治家です。本当の事を聞くと心が傷つく人が多いので、真実を語るにはいつもリスクがあります。  かつて、奴隷解放や拷問の禁止など、絶対的な価値観に関わる政治課題がありましたが、近ごろの政治家の議論を聞いていると、白黒がはっきりしているものは少なくなっています。大きく分けると、強い国家の実現を優先させるか、国民の日常的な暮らしを優先させるかの議論です。どちらも必要なので、結局はバランスの取り方の問題です。私は信仰を基準に投票することが多いです。政治家を宗教で選ぶという意味ではありません。しかし、誰よりもナザレのイエスの生き方を理想にしているので、「現代の日本社会にナザレのイエスがいたら何を言うだろうか。」と考えながら、政治家の話を聞きます。  多くはいませんが、時々、「この政治家にイエス様の姿が重なって見える。」と思うことがあります。新約聖書時代もそうでしたが、そのような人物が現れると都合の悪い人もいます。そのため、足を引っ張り、誹謗中傷する人が現れます。イエス様が最終的に十字架に付けられたのと同じように、政治的に抹消されることが多いです。しかし、非難を恐れないで語り続ける勇気があるなら、聞く人の心に真実は響きます。選挙に負けてもメッセージの要点が伝わり、次の機会に活かされます。有権者になる皆さまに、政治家を正しく見分ける目を養って欲しいと思います。 スポーツの試合と政界の選挙に、似ている部分がたくさんあります。どちらにもポイントを奪い合う競技者がいます。点数に差が開く場合もあれば、接戦になる場合もありますが、一点でも多い方が勝ちます。審判が結果を告げると勝者は喜び、敗者はいくら悔...

2021年1月31日 3学年終業礼拝 「幸せばかりが目標ではない」

  2021 年 1 月 31 日  3 学年終業礼拝 「幸せばかりが目標ではない」 テモテへの手紙Ⅰ 2 章 15 節 「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるなら、子供を産むことによって救われます。」 聖書の中に難解で、現代人の感覚に合わないように思える言葉はいくつもありますが、その最たるものは使徒パウロが弟子のテモテに送ったこの言葉かもしれません。二千年前に書かれた古代人の差別的な言葉として無視することもできますが、聖書の言葉となると、そう簡単に片づける訳には行かないと思います。現代社会の価値観に会わない、封建的な教えだと決めつける前に、言葉の中に時代を超えた、奥の深い真実がないかと、よく考える必要があります。「子供を産むことによって救われる。」これはご婦人向けに書かれた言葉ですが、自ら産んだことのない、男である自分の心にも響くものがあります。 今から35 年前、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落する五日前のことでした。23歳の少し若すぎる父親として、ちょっと無理を言って、当時の日本では珍しい、分娩の立ち合いをさせていただきました。朝早くから始まった、辛い陣痛に十三時間も絶えた妻は疲れ切って産む力を失いかけていました。難産の末に姿を現した長男の、大きな目で周囲をジロジロと見まわす、驚いたような顔はとても印象的でした。この場面で、感極まって泣く人もいると聞いていますが、私はその逆で、無事に生まれてきたという安心感と、長男の表情の面白さが重なり、こみ上げてくる笑いを抑えるのがやっとでした。母子を病院に残して帰宅した私は車を運転しながら、長男のあの表情と、初めて我が子を抱いた感触を思い出しながら一人でニヤニヤしていました。 当てになるかどうかはわかりませんが、様々な幸福度調査によると、独身の方に比べると、結婚している方の方が「幸せだ」と答えることが多いです。しかし、子供がいない夫婦より、子供がいる夫婦の方が幸せだという結果は出ません。子供を産むことで自由を奪われたり、睡眠時間が削られて疲労がたまったり、子育てに必要なお金の工面に苦労したりする内に、子供がいない夫婦の方が幸せそうに見えてくるのでしょう。 若くして父親になった私の場合、明らかに有利だったのは体力があることでした。晩婚だった父から聞かされた、子供が生まれてからの...

2020年1月31日 3学年終業式 「新しい創造」

  2020 年 1 月 31 日  3 学年終業式 「新しい創造」 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5 章 17 節 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」  『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。』これはチャールズ・ダーウィンの言葉として引用されることが多いですが、実際は 1960 年代に活躍した経営学の研究者、レオン・メギンソンの言葉です。いくら堅実な経営をしている会社でも、いつまでも同じ工程で、同じ商品を作り続け、同じ商法で販売しようとすると、いずれは消滅すると言いたかったようです。  産業革命以来、人間社会を取り巻く環境は激しい変化の連続を経てきました。個人のレベルで考えても、生計を立てるため、一生頼りにできると思っていた知識や技能の価値が急に下がったという例はいくらでもあります。自動化で手作業が不要になったり、賃金が安い国外に工場が移ったり、お店のサービスがネット経由で受けられるようになったりしました。 一時期、学校にも大きな嵐があり、それまでの指導法が通用しなくなりました。メディアは荒れた学校や崩壊した学級を頻繁に取り上げ、それに対処できる強面の教員が重宝される時期がありました。しかし、いつの間にか教室は落ち着きを取り戻し、その同じ教員はそれまでのやり方を変えるか、教育現場を離れるかの選択を迫られました。生徒指導はより繊細な心のケア、教科指導は考える力の育成へとシフトしました。 その間、あまり変化が見られなかったのは大学の入試制度でした。考えさせる工夫や記述問題の限定的な導入は見られましたが、論を立てて発信する力を試す問題に乏しい試験が多かったです。中央教育審議会は今から五年前に大胆な改革を提案し、文部科学省はそれに従って計画を立てました。主な内容はマークシート方式の問題に記述問題を加えることと、英語の「読む、聞く」に加えて「書く、話す」力を試す英語四技能試験の実施でした。 日本社会では、大学入試の成功が子育ての最終目標かと思うほど、教育活動の大半はこのゴールに向けて行われてきました。教育内容をいくら見直しても、入試で使わない知識や技能は趣味程度に扱われ、重要視されて...

2019年1月31日 3学年終業礼拝 「人生と呼べる生き方」

  2019 年 1 月 31 日  3 学年終業礼拝 「人生と呼べる生き方」 マタイによる福音書 11 章 29 節 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 今、一番学びたいことは何ですか。特に思い当たる事がなければ、人生が終わったと思ってください。生き物として生命が終了したという意味ではありません。「人として生きる」と書く「人生」は、人以外の生命体には体験できません。人以外の生き物に、生命の維持・継続という目的を超越した存在意義を見出すのは困難だからです。対照的に人は死ぬ瞬間まで学んで物事に対する理解を深め、それまでにできなかった事をする技能を習得することができます。だからこそ、単なる生命の継続と違って、「人生を送っている」と言うことができます。生命を維持、継続させて一生を終える動物と、最後まで学び続けることのできる人の根本的な違いはここにあります。 人は何億年も続いた広大な宇宙に比べると、一瞬の内に消える微塵にも値しない生命の一粒に過ぎません。しかし、宇宙そのものが何億年続いても、自ら自分の存在に気が付くことがありません。輝く銀河系も光を放っていることを知ることもなく、自分の美しさに感動することもありません。対照的に、一瞬の内に朽ちて行く、一粒の生命に過ぎない人間は、何億年という概念を理解し、広大な宇宙がそこにあることを知って感動することができます。理解や知識や感動に留まらず、人は宇宙空間に旅立って無事に帰ってくる宇宙船を作って操作する能力まで身に着けました。自分の身体機能を司る DNA の仕組みまで理解し、身体のプログラミングさえ手掛けるようになりました。 すべての生き物に生命があり、それぞれの動物に寿命があります。しかし、人が人生を送ることは、より高い次元の生命を生きることです。我々は人生という名にふさわしい生命を生きているかをよく吟味する必要があります。卒業生の皆様は東奥義塾で多くのことを学んだのは言うまでもないことです。しかし、学んだ量と、身に着けた技能の水準に大きな差があったと思います。「とても楽しい三年間を送ったという思いでの他に、高等学校に在籍したという証になるものを言え。」と迫られたら、返事に困る卒業生は少なくないと思います。三年間という...

2018年1月31日 3学年終業礼拝 「神様に祝福された人たち」

  2018 年 1 月 31 日 3学年終業礼拝 「神様に祝福された人たち」 マタイによる福音書 25 章 34 節~ 36 節、 40 節 34節   ・・・「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35節   お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、 36節   裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40節   ・・・「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 どうなるかという不安を抱きながら入学した東奥義塾だったかもしれませんが、ついにゴールラインを踏み越える時がやって来ました。栄えある卒業式。皆様が主役として脚光を浴びる晴れ舞台。準備が整い、残された勤めは舞台に駆け上がり、三年間の功績の証、卒業証書をしっかりと手につかむことだけです。しかし、すべての事に表と裏があります。卒業式は一方では皆様の門出祝いであり、他方では、もうこの校舎に来なくても良いと告げる「突き放し」の儀式です。動物の親が乳離れさせるために心を鬼にして子どもを突き放すように、親も教師も覚悟を決め、「独り立ちできるようになったから、これ以上、足手まといなるな。自分の道を自分で切り開け。」と言って外界に押し出します。  すぐに仕事に就く卒業生もいれば、大学という猶予期間に恵まれる卒業生もいます。しかし、遅かれ早かれ、全員が何かの仕事に就くことになります。今振り返ってみると、大学卒業時に誰かに言って欲しかったことがあります。その内のいくつかお伝えしたいと思います。在学中は自分の好みに合った、自分にとって最も都合の良い仕事が何かということについてよく考えました。その仕事に就いている自分を想像し、現実性のない、甘い夢を見ていました。しかし、就職してから間もなく、自分の都合に合う仕事が一つもないことに気が付き始めました。もっと良い職場がないかと思って探せば、労働条件が多少ましになるかもしれませんが、どう頑張っても夢のようには行かないことを悟りま...