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Showing posts from April, 2018

2018年4月23日 礼拝説教 「ゲラサ人のブタ」

2018 年 4 月 23 日礼拝説教 「ゲラサ人のブタ」 ルカによる福音書 8 章 32 節~ 39 節 32節              ところで、 その 辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた 。 悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。 33節              悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。 34節              この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。 35節              そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。 36節              成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。 37節              そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。 38節              悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 39節              「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 妻のおじいさんは昔、ブタを飼っていて、その世話をするのを生き甲斐にしていました。しかし、近所の方々から「臭い」という苦情が市役所に届けられ、そのおじいさんの息子が市役所に勤めていたので、ちょっと気まずいことになりました。結果的におじいさんを説得して、ブタを処分してもらうことになりました。想像できると思いますが、とてもがっかりして、しばらくは元気を失いました。 日本でブタを飼うと、このような苦情を受けることがあっても、養豚業そのものがいけないと言う人はいません。対照的に、旧約聖書に従って、ブタ肉を絶対に食べない、ユダヤ

2018年4月16日 礼拝説教 「ゲラサ人レギオン」

2018 年 4 月 16 日礼拝説教 「ゲラサ人レギオン」 ルカによる福音書 8 章 26 節~ 31 節 26節              一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 27節              イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。 28節              イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」 29節              イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。 30節              イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。 31節              そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。 衣服を身に着けない。家に住まない。鎖でつないでも縛っておけない。昼も夜も、墓場で叫ぶ。石で自分の身体を打ちたたく。このような人を見たことがないと思うかもしれませんが、どの時代の、どの社会にも、似たような人がいます。先進国であまり見かけないのは、人目につかないように施設に閉じ込め、おとなしくなるように薬を飲ませるからです。 一般の人とは関係のない特殊な人の話だと思うかもしれませんが、この「悪霊にとりつかれたゲラサ人」の物語は、多くの文学者の注目を集め、多くの読者の心を捉えてきました。六千人からなるローマの軍団を指して用いられる言葉、「レギオン」と名乗るこのゲラサ人。外見的にはまったく正常な人間でも、「これは私のことだ」と言って親近感を持つ人が多くいます。表向きの自分は礼儀正しく、人に優しい。しかし、それとは別な、滅多に人に姿を見せない、陰の自分がいることに気付き、この隠れた自分に怯え、苦しんでいる人は少なくはありません。 精神疾患について専門的な知識が

2018年4月9日 始業式 「わたしたちはその道を歩もう」

2018 年 4 月 9 日 始業式 「わたしたちはその道を歩もう」 イザヤ書 2 章 2 節~ 5 節 2節           終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 3節           多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。 4節             主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。 5節           ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。  「自分が一番になりたい。」だれにもこのような願いがあると思いますが、その気持ちを前面に出すとひんしゅくを買うので、「とにかくベストを尽くします」と言って謙虚に振る舞う人が多いと思います。応援しているスポーツ選手に関してはどうでしょうか。自分ではなく、憧れている別人を励ます行為なので、かなり派手な応援をしても許される雰囲気がありますが、「自分の国を一番にしたい」という思いはどうでしょう。この一、二年、ほかの国の都合はお構いなしで、自国の利益を主張する大統領や国のリーダーが目立つようになりましたが、個人的な感想を言うと、あまり気持ちの良いものではありません。  今日の聖書の箇所は、先日、入学式で読まれた箇所との関連が深いですが、自分の国に一番になって欲しいと思う人たちの気持ちが書かれています。今から 2,750 年くらい前のこと、中近東付近にある、いくつかの強い帝国が競い合い、それまで中堅国家として頑張っていたイスラエルが太刀打ちできなくなり、飲み込まれそうになっていました。それぞれの帝国の中心にある都に、周辺諸国から貢物が運ばれ、都に祭られた神に祈りが捧げられ、訪問者は見聞きした文化を吸収して本国に戻りました。  その様子を見て、イスラエルの人たちの中にも、新しく力を付けた帝国の都に憧れ、その風習になびく人たちが現れ始めました。その一方、帝国の繁栄が一時的なものであることを悟り、イスラエルの神の教えと、エルサレムにある神殿の優位性を少し

2018年4月6日 入学式 「新しいことをわたしは行う」

2018 年 4 月 6 日 入学式 「新しいことをわたしは行う」 イザヤ書 43 章 18 ~ 20 節 18節  初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 19節  見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えてい る。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道 を敷き砂漠に大河を流れさせる。 20節  野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂  漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるから だ。 「神様が戦争に負けた。」今の時代にこのようなことを言えば笑われそうですが、先ほど阿部宗教主事に読んでいただいた聖書の言葉が書かれた頃、国同士の戦争は、それぞれの国が拝んでいる、神同士の戦いだという考え方がありました。国が滅ぼされると、滅ぼされた国の神が戦争に負けたという解釈をしました。 紀元前一千年前後のこと、イスラエルの神の評判はとても良かったです。エジプトで奴隷生活をしていた民族を解放し、ダビデ王の下で周辺国家を圧倒する小さな帝国を治める国へと育て上げたのはイスラエルの神でした。ところが、大帝国時代が始まり、歴史の新しい流れに飲み込まれ、イスラエルは国としての存在を失い、国民のおもだった人たちは遠い国に強制移住させられました。 当然のこととして、このような目に会った彼らの心に、自分たちが拝んでいた神について疑問がわきました。ある人たちは思いました。「イスラエルの神が負けたからもう仕方がない。これからは戦争に勝った国の神に祈ろう。」しかし、次のように思う人たちもいました。 「イスラエルの神がこのような負け方をするはずがない。原因はきっと私たちの悪い行いにある。頭を下げて謝れば、昔のように、またひいきしてくれるかもしれない。」そう思った人たちは祈りました。「神様、あなたの昔のみわざについて私たちは聞いています。この時代に、もう一度、それをくり返してください。」 預言者たちの口を通して答えが返って来ました。「イスラエルの神を誰だと思っているのか。隣の国の神と喧嘩をするような、ちっぽけな神ではない。天と地を造られた神で、我々の国を滅ぼしたあの帝国さえ、勝負できる相手ではない。しかし、『昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわた