Posts

Showing posts from February, 2018

2018年2月26日 礼拝説教 「私の母と兄弟とは誰か?」

2018 年 2 月 26 日礼拝説教 「私の母と兄弟とは誰か?」 ルカによる福音書 8 章 16 節~ 21 節 16節              「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 17節              隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。 18節              だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」 19節              さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。 20節              そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。   21節              するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」 とお答えになった。 イエス様の名声が広がるなか、家族はどう思ったのでしょうか。一家の長男が、急に注目の的になっている事を誇らしげに思う余裕はなかったようです。イエス様の言動は彼らの心に不安を掻き立て、家族会議の末、一つの結論が出ました。「お兄ちゃんは気が変になった。このまま放っておくと大変なことになる。無理にでも家に連れて帰るしかない。」 「種蒔きの例え」に見られるように、イエス様の教えを受け入れない人たちが大勢いました。しかし、冷たい視線を向ける人たちの中に、最も親しい関係にある母親や兄弟が含まれていたことを不思議に思いませんか。マルコによる福音書を読むと、兄弟たちがイエス様を取り押さえに来たことがわかります。しかし、目当てのお兄さんは、おびただしい群衆に囲まれ、近づき様がありませんでした。 イエス様は寝食を忘れて神様から与えられた使命を果たそうと必死に努力している最中で、邪魔しに来た家族の相手をしている場合ではありませんでした。「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます。」この知らせを耳にしたイエス様の態度は毅然としたものでした。「わたしの母、わ

2018年2月19日 礼拝説教 「私の心はどんな土地?」

2018 年 2 月 19 日礼拝説教 「私の心はどんな土地?」 ルカによる福音書 8 章 9 節~ 15 節 9節                   弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 10節              イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」 11節              「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 12節              道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 13節              石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 14節              そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 15節              良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」 二週間前の礼拝で「種蒔きの例え」について話しました。今日の聖書の箇所はその続きで、例え話の解釈になっています。前回は種を蒔く人の立場になって話しました。今回は種を受け入れる土地の側に立って考えたいと思います。 「種蒔きの例え」の種は、「神の言葉」だとイエス様が言いました。聖書の言葉はもちろんの事、私たちを良い方向に成長させるすべての言葉や発想が含まれていると言えます。土地は私たちの心を指しています。良いアドバイス、建設的な意見や、人類の幸せにつながる考えを同じように耳にしても、心の状態の違いによって、全く違う結果が生まれます。 まずは道端のような心を持っている人たちです。暮らしや環境を大きく改善するすばらしいアイディアを発表すると、最初から皆が賛成すると思うかもしれませんが、世の中はそのようには行きません。人間が数人集まれば、その中に道端のような心を持っている人たちが必ずいます。大多数の

2018年2月7日 礼拝説教 「種が良くても育つとは限らない」

2018 年 2 月 7 日礼拝説教 「種が良くても育つとは限らない」 ルカによる福音書 8 章 4 節~ 8 節 4節                   大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 5節                   「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 6節                   ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 7節                   ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 8節                   また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 十代の頃、音楽とか、本とか、映画で強烈な感動を覚えることがありました。人は文学や芸術作品との運命的な出合いを通して、生きる力を得たり、人生観を学んだりするので、それはそれで貴重な体験だったと思います。しかし、家族や友人に同じ思いを共有して欲しいと思って紹介すると、期待通りの反応が得られず、がっかりすることが多かったです。「この素晴らしい作品に触れても、感動できないこの人の心はどうなっているのだろう。」と思うことがよくありました。 今、思えばその逆のこともありました。熱心にレコードや本を勧めて貸してくれる友人がいました。レコードは適当に流して「良かった」と言って返せばそれで済みますが、本を一冊読むのにそれなりの時間と労力が求められます。「この本のどこが凄いのだろう」と思いながら時間を奪われて損した気分になったこともありました。 今日はイエス様の「種蒔きの例え」を読んでいただきましたが、私が五年前まで住んでいた中国の江西省で同じような光景を見ました。緯度は台湾と同じくらいの場所だったので、農家の方々は年に二回お米の収穫をすることができました。夏に田植えする二作目は日本と同じように苗を育ててから、一株ずつ水田に植えてきれいな列を作りましたが、春の一作目は種を手に握って水田に蒔きました。 かなりおおざっぱな作業だっ