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2021年9月27日 礼拝説教 「私たちの心は燃えたではないか」

  2021 年 9 月 27 日 礼拝説教 「 私たちの心は燃えたではないか 」 ルカによる福音書 24 章 25 ~ 32 節 25節              そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26節              メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27節              そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 28節              一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 29節              二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 30節              一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31節              すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32節              二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 「平凡な教師は伝える。良い教師は説明する。優れた教師は実行してみせる。偉大な教師は生徒の心に火をつける。」これはアメリカの作家、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉です。読み聞かせるだけでも情報が伝わりますが、教員の役割は生徒の注意を引き付け、わかりにくい事実や真実をわかりやすく説明することです。これがうまくできれば、とりあえずは教員として勤まりますが、本当の教育者はそれで満足しません。理想に終わることが多くても、優れた教員は生徒の心に火をつけたいと思っています。放火事件と比較するのもどうかと思いますが、マッチ一本で起こした小さな火が、大きな建物を全焼させるように、授業で生徒の心に起きた変化が、世界を変える効果を生むことがあり、教員はそれを期待します。 この基準に照らし合わせて言うと、エマオに向かうお二人と歩きながら旧約聖書を解釈した

2021年9月13日 礼拝説教 「耶蘇基督、同行」

                                  2021 年 9 月 13 日 礼拝説教 「耶 蘇 基督 、 同行」 ルカによる福音書 24 章 13 ~ 24 節 13節              ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 14節              この一切の出来事について話し合っていた。 15節              話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16節              しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 17節              イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 18節              その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 19節              イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 20節              それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 21節              わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 22節              ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23節              遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24節              仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 幻滅。外見的に見て世の中がどこも変わっていないのに、すべてが終わったと思う時があります。過去と現在の他に、人には未来という