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Showing posts from May, 2022

2022年5月30日 礼拝説教 「おしゃべりする蛇」

2022 年 5 月 30 日 礼拝説教 「おしゃべりする蛇」 創世記 3 章 1 節~ 8 節 1節                 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 2節                 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3節                 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 4節                 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 5節                 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 6節                 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 7節                 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 8節                 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた。 幼稚園で読んでもらった童話に熊やウサギなど、おしゃべりする動物がよく出てきました。しかし、童話の中に言葉を話す蛇はいなかったと思います。蛇を見るとゾッとするのは人間だけではありません。小さな隙間さえあれば忍び込み、不気味な動きをしながら近づいて来ます。雛や子供を狙う蛇は童話に相応しくない、自然界の嫌われ者です。聖書によると、人間の不幸は蛇との出会いから始まります。蛇は何を例えているのでしょうか。 親は子供の近くから悪い物を取り除き、危険のない、守られた環境を作るように努力します。しかし、いくら安全な場所を作り、注意深く見張っても、好ましくない物が近づいてきます。明らかに怖い物なら対処しやすいです。入って来ないように柵を設けたり、錠をかけたりすれば済むことです。しかし、生きて来た経験年数の違いから、親が危険だとわ

2022年5月23日 礼拝説教 「独りでいるのは良くない」

  2022 年 5 月 23 日 礼拝説教 「独りでいるのは良くない」 創世記 2 章 18 節~ 25 節 18節              主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 19節              主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 20節              人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 21節              主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 22節              そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 23節              人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 24節              こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 25節              人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 中高生の皆様は、男女のことでときめき、悩み、楽しみ、苦しんでいる真っ最中かもしれません。人は異性との関わり方をめぐって、とても複雑な気持ちに振り回されます。これは思春期で終わることではなく、大なり小なり、一生付き合わされる問題です。今読んだ聖書の箇所の男女の描き方が差別的だと批判する人もいます。男女が一緒に造られる 1 章の物語と違って 2 章では、生き物が造られる順序は男の人、人間以外の動物、そして最後に女の人です。人は皆、女性の身体から生まれるのに、この話に出て来る最初の女性は、男性の身体から生まれます。一見、男尊女卑に見えるかもしれませんが、注意深く読むと、とても大事なことに気が付きます。  「人が独りでいるのは良くない。」それもそうでしょう。友だちがいないと寂しいです。しかし、ここに書いてあるのは、そのようなレベ

2022年5月16日 礼拝説教 「二本の木」

  2022 年 5 月 16 日 礼拝説教 「二本の木」 創世記 2 章 9 節~ 17 節 9節                主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 10節            エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。 11節            第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。 12節            その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。 13節            第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。 14節            第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。 15節            主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 16節            主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 17節            ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」  「 小さい頃は神様がいて、 不思議に夢をかなえてくれた。小さい頃は神様がいて、毎日愛を届けてくれた。」この歌詞を聞くと、魔女の宅急便のエンディングテーマを思い出すと思いますが、もともとはデビュー間もない、松任谷由実が作ったソフトエクレアのコマーシャル・ソングでした。「神様がいた小さい頃。」人類にもそのような時があり、古代人の記憶に残っていたその頃の思い出は、聖書の言葉として私たちに伝わっています。 縄文時代の日本も山や海の幸が豊かで、畑を耕さなくても食べる物がたくさんありました。自然の恵みをたっぷりいただいていた縄文人は、手の込んだ土器や土偶を作る余裕がありました。彼らの生活にも、不思議に夢をかなえ、愛を届けてくれる神様がいたのでしょうか。 最初の人間に与えられた生活環境は、縄文時代の日本に劣らない、豊かな森でした。先週から読み始めた二つ目の創造物語によると、最初に造られた生き物は人間で、その人間が住む場

2022年5月9日 礼拝説教 「神の息」

  2022 年 5 月 9 日 礼拝説教 「神の息」 創世記 2 章 4 節~ 8 節 4節                   これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 5節                   地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。 6節                   しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。 7節                   主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 8節                   主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 聖書の初めに二つの天地創造物語があります。先週まで読んでいたのは先の方で、今日から読み始めたのは後の方です。話に順序の違いがあり、神様の名前も違います。一般的な「神」という言葉を使っているのは先の方で、声に出してはいけないほど恐れ多い「ヤーウェ」という、神様の個人名を使っているのは後の方です。日本語訳で「ヤーウェ」に代わって「主」という言葉を使っています。「主、つまり、ヤーウェである神は、土の塵で人をつくり、その鼻に命の息を吹き入れた。人はこうして生きる者になった。」 すべての人に人権があり、人の命が同じように尊いという考えが世界に広まったのは比較的最近のことです。人が持つ美しさや、体力や、頭の良さや、生まれた家の身分に大きな差があるので、人の価値にも差があるという考えの方が一般的でした。戦争に負けたり、借金を返せなくなったりした人を、物として売り買いするのが当然だと思われた時代もありました。読み書き算数もできない、裸同然で原始的な暮らしている人たちを同じ人間と見る必要がないと考えたので、アフリカから一千万人以上の人が奴隷としてアメリカ大陸に連れて行かれました。 ドイツ人がユダヤの血を引く 600 万人の人を殺したのは有名な話ですが、その少し前に、知的障害を持つ人を、捨て犬同然に 20 万人も殺処分したという事実はあまり知られていません。相模原市の施設に忍び込み、利用者 19 人を刺し殺した事件を覚