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2020年6月1日 礼拝説教 「結婚という絆」

2020 年 6 月 1 日 礼拝説教 「結婚という絆」 ルカによる福音書 16 章 15 ~ 18 節 15節              そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。 16節              律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。 17節              しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 18節              妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」 結婚式の挙げ方だけで判断するなら、日本がキリスト教国だと思われるかもしれません。結婚情報誌が調べたところ、日本国内の結婚式の半分以上はキリスト教式で行われています。参列者の前で誓約する人前結婚の人気も高まり、伝統的な神式を選ぶカップルは六組に一組まで落ちています。ウェディングドレスを着たいという願いも影響しているかと思いますが、教会の結婚式の中心部分、二人が交わす愛の誓いへの憧れが主な原因だと思います。 世界の注目を受けながら、厳かな結婚式を挙げたイギリス王室のその後の離婚騒動は、キリスト教式の値打ちを大きく下げたと思います。しかし、教会での結婚式はそもそも、死ぬまで絶対に破ってはならない誓いを交わす儀式であり、あの独特な、後戻りできないと思わせる雰囲気も、その魅力一つだと思います。今になって離婚できない国は稀ですが、つい最近まで、ヨーロッパや南アメリカのカトリック教徒の多い地域を中心に、一度結婚したらもはや離婚する方法がない国がいくつもありました。 イエス様には、一般庶民を堅苦しい規定から解放した人というイメージがありますが、結婚のことになると、ユダヤ教徒たちよりはるかに厳しい教えを説き、キリスト教社会は何世紀にも渡ってその影響を受けてきました。旧約聖書が離婚に寛大だったとは言えません。最後の預言者、マラキは次のように言いました。「あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むとイスラエルの神、

2020年5月25日 礼拝説教 「とても大事な小さなこと」

2020 年 5 月 25 日 礼拝説教 「とても大事な小さなこと」 ルカによる福音書 16 章 10 ~ 14 節 10節              ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 11節              だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 12節              また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 13節              どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 14節              金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 「カンニング」は何点も変わる訳でもないのに、少しばかり自分を良く見せようとする校則違反ですが、発覚すると、とても重大な事として扱われます。「カンニング」という言葉は和製英語です。英語の「 cunning 」は、日本語の「狡猾」、または「ずるい」に近い意味がありますが、日本で「カンニングをした」と言えば、テストや試験で不正行為をしたことになります。  見つからなければ誰にも迷惑をかけない、小さな罪だと思うかもしれませんが、会社の人事部長は学校時代に成績をごまかした人を採用しようとは思いません。内容によりますが、警察沙汰の方がマシだと思われる場合もあります。カンニングの事実をクラスメートに知られることが多いので、いつまでたっても「カンニングをした奴」というレッテルを張られる事があります。 この小さな行為が何故、これほどまでに重く見られるのでしょうか。答案を採点する教員と、成績通知表を受け取る両親を欺くのはもちろんのことですが、最終的に騙されるのは不正行為をした本人だからです。正直に零点を取るのは一時の恥かもしれませんが、自分の力のなさと正直に向き合うなら、決して恥かしいことではありません。反省と努力さえあれば、いくらでも挽回できます。カンニングは生徒からその機会を奪います。 本当に

2020年5月25日 礼拝説教 「寝返った管理人」

2020 年 5 月 18 日 礼拝説教 「寝返った管理人」 ルカによる福音書 16 章 1 ~9節 1節                   イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 2節                   そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 3節                   管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 4節                   そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 5節                   そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 6節                   『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 7節                   また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 8節                   主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 9節                   そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 イエス様のたとえ話のなかで、一番理解しにくいと言われているのは、この「不正な管理人のたとえ」です。内容は単純明快ですが、イエス様は何を言わんとしていたのでしょうか。主人を上手く騙した従業員をほめているかのように見えますが、イエス様は不正を奨励するようなお