2020年5月25日 礼拝説教 「寝返った管理人」


2020518日 礼拝説教
「寝返った管理人」

ルカによる福音書161~9節

1節                  イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
2節                  そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
3節                  管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
4節                  そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
5節                  そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
6節                  『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
7節                  また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
8節                  主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
9節                  そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

イエス様のたとえ話のなかで、一番理解しにくいと言われているのは、この「不正な管理人のたとえ」です。内容は単純明快ですが、イエス様は何を言わんとしていたのでしょうか。主人を上手く騙した従業員をほめているかのように見えますが、イエス様は不正を奨励するようなお方だったでしょうか。現代社会に生きる私たちには納得しづらい話です。

 注目していただきたいのは、この主人が「金持ち」だったという事です。ルカによる福音書に登場するイエス様は、他の福音書にはない、金持ちに対してとても厳しいことを言っています。旧約聖書の教えを忠実に守るなら、ユダヤ人たちの間に貧富の差が広がるはずはありませんでした。何故なら、ユダヤ人の律法は貧しい同国民から利子や利息を受け取ることを禁止していただけではなく、七年ごとに借金を帳消しにするのを強制していたからです。

レビ記の25章に「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときはその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。」申命記の15章に「七年目ごとに負債を免除しなさいあなたの神、主は必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる。」と書いてあります。

 イエス様が「金持ち」と言って非難したのは、よく働いた結果、生活に余裕ができた人たちではなく、旧約聖書の教えに反して借金を帳消しにせず、お金に困っている人たちを助けようともせず、かえって法外な利息や土地代を取り立て、貧しい人たちを苦しめる人たちでした。この「不正な管理人」の「不正」が始まったのは、主人を騙した時からではなく、旧約聖書に従わない主人の手足になり、生活が苦しい人たちからお金を容赦なく巻き上げるようになった時からでした。

 この人の管理人としての役割は周囲に暮らす人たちを幸せにすることではなく、お金持ちである主人の財産を更に増やすことでした。主人に借りがある人たちの苦労を目の当たりにした管理人はちょっと甘くなっていたのでしょうか。心を鬼にして取り立てを続けるのが辛くなったのでしょうか。主人の目に、管理人の心の緩みは無駄遣いにしか映りませんでした。主人が出した結論は明白でした。「もう管理を任せておくわけにはいかない。」

 これまで、主人の利益になるようにお金を動かしていた管理人の前に残された選択は、肉体労働と乞食の二つしかありませんでした。どちらも嫌だったので思い切った行動に出ました。主人に借金している人たちを呼び、利息分を差し引いて書類を作り直し、負債の額を大きく減らしました。勝手な行動でしたが、皮肉なことにこの行為で、寝返った管理人は主人に代わって旧約聖書の教えを実行しました。動機は不順で、この行動に出た理由は、皆に恩を売れば食いつなぐ方法が見つかると考えたからです。今なら背任の罪に問われそうなやり方でした。しかし、この話の結末は、金持ちに苦しめられていた当時の一般民衆に「アッパレ」と言わせ、愉快な気持ちにさせる展開でした。

 そもそも、話の主人公は「世の子」で、とうてい「光の子」とは言えない油断ならない奴でした。イエス様はこの人を模範にしなさいとは言っていません。多くの間違いのもとになるので、お金を「不正の富」と呼んでいますが、仮に金銭が手に入ったら、イエス様の弟子である「光の子」はどうすれば良いのでしょうか。

最後はなくなるものだから、どうせなら手に入れたお金を人のために使いなさい。人を幸せにするために使ったお金はなくなった後も、人の心から離れない。その行為が永遠の住まい、つまり天国につながる道になる。イエス様は私たちに、このことを伝えたかったのです。

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