2024年7月22日 終業礼拝 「心を見る神」

 2024722日 終業礼拝

「心を見る神」

サムエル記上 161節、4節~7節

1節               主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」

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4節               サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」

5節               「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。

6節               彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。

7節               しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 お爺さんやお婆さんが結婚した頃、出会いのきっかけのほとんどはお見合いでした。恋愛に憧れる人もいましたが、情が冷めたら別れるというイメージがあり、円満な家庭が欲しい人は親や上司のアドバイスを聞いてお見合いをしました。ご両親の世代になると、恋愛結婚が主流になりましたが、今はデジタル時代を反映してマッチング・サービス・アプリの利用者が増えています。出会いを求める候補者の数が多ければ多いほど、興味や価値観が合う相手が見つかりそうな気になります。面と向かって拒絶される心配もないので、断られても傷つかないと思って登録する人も多くいます。

 日本より一足先に始まった英語圏で、マッチング・サービス関連のデータの蓄積が進み、調査する人たちの間から問題点を指摘する声が上がっています。相手の正体が見えにくい、オンラインの付き合いの危険性はさておきながら、表面的なスペックでしか評価してもらえない辛さが明らかになっています。身長、学歴、収入で評価されがちな男性の場合は、スペックの高い、トップの一割に女性会員の興味が集中し、残りの九割はプロフィール作りにいくら励んでも全く相手にしてもらえない傾向が見られます。

 その反面、スペックの高い男性から承諾のメッセージを受ける女性の多くは、自分の魅力が高く評価されたと勘違いして最初は嬉しい思いをします。しかし、付き合いを初めても長続きすることがなく、しばらくすると同じ男性と付き合っている数多くの女性の一人に過ぎない自分と向き合うことになり、心に傷を負うことになります。技術の進歩と共に、男女の付き合いは高度で洗練された物になるどころか、テレビの動物番組に映る哺乳類の繁殖期を思わせる状況が見えて来ます。マッチング・サービスのお陰で幸せな結婚をつかむ人もいるでしょう。しかし、人の本性を知るには時間がかかり、表面にごまかされない知恵を育てることと、人の隠れた魅力を発見できるまで忍耐して待つことの大切さは言うまでもありません。

 「容姿や背の高さに目を向けるな・・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」サウル王に見切りをつけた神様は、年老いたサムエルに最後のお勤めを託しました。後にイエス様が誕生した場所として有名になったベツレヘムに、エッサイという人が住んでいます。この人の息子の一人が次の王様になるから任命してきなさい。神様からこの命令を受けたサムエルはベツレヘムに出かけ、宗教的な儀式を主催してエッサイとその息子たちを招きました。

 王様に相応しい人として、サムエルの頭にサウル王の若い頃のイメージが刷り込まれていました。外見は美男子で背が高く、言葉が上品で爽やか。そのような人を探そうと目を光らせていたサムエルの気を引いたのはエッサイの長男、エリアブでした。瞬時に「この人に違いない」と判断したサムエルに待ったをかけたのは神様ご自身でした。「違う。あなたはこの世的な基準で判断している。まだわからないのか。私は人間が見るようにして人を見ない。」

 「目に映る物によってではなく、心によって見る。」誰と付き合い、誰と結婚し、リーダーとして誰を選ぶかに深い関係がある言葉です。しかし、自分自身をどのように鍛え、どのように表現するかにも大きな意味があります。テストを迎える時に力をごまかすか、点の取り方にこだわるか、それとも学んでいることを本当に理解しようとするか。面接を受ける時は、聞こえの良いセリフを並べて切り抜こうとするか、それとも長所と短所と正直に向き合いながら、本物の自分で勝負するか。化粧、アクセサリーや、服装で自分をよく見せようとする努力をするのか、それとも新約聖書にも書いてあるように、「柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた」内面的な美しさで勝負するか。

 とても暑い夏が始まろうとしています。日常の学校という束縛がはずれ、どのように時間を過ごし、誰と付き合い、どこに行くかという、日ごとの選択を通して自分の生の姿と向き合うことになります。一ヶ月後に新学期を迎え、夏を克服できた、成長を遂げた人間としてこの場に戻るか、それとも今の状態からむしろ後退した、弱い人間になってしまうかの勝負は、今から始まります。剣道部の選手たちのように、日本一を目指して全国の強豪に挑んで来る生徒がいる一方、部活動に一区切りをつけて志望する進路の実現に本格的に取り組む生徒もいます。双方にとって勝負どころとなります。どのような結果がでるかが楽しみです。

 新学期の始業式の礼拝からいよいよ、ダビデという人物を紹介します。この人について神様は「わたしの心に適う者を見出した。彼は私の思うところをすべて行う。」と言いました。中身のない自分の正体がバレ、神様から「わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。」と言われることのないように、互いに励まし合いながら進みたいと思います。一ヶ月後に元気な姿で再会できることと、素敵な夏休みを過ごせることを祈ります。

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