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Showing posts from January, 2024

2024年2月5日 礼拝説教 「偶像崇拝の罪は重い」

2024 年 2 月 5 日 礼拝説教 「偶像崇拝の罪は重い」 出エジプト記 32 章 17 節~ 24 節 、 30 節 17節        ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、 18節        モーセは言った 。「これは勝利の叫び声でも敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」 19節        宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、 手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 20節        そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。 21節        モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、 22節        アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。 23節        彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、 24節        わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30節        翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。」 「そこまで怒る必要はあるだろうか。」そう思いながらこの話を読む人もいると思います。食べるなと言われた木の実に手を出しただけで、最初の人間の幸せな生活を決定的に終わらせ、金の子牛を拝んだだけで一つの民族を滅ぼすという神様は一体何物でしょうか。悪い事が嫌いで、罪を赦せないと言うのなら、今も続いている戦争犯罪や児童虐待などに目を向けるべきではないでしょうか。旧約聖書はこの「金の子牛事件」を、人を殺すこと以上に重い罪として扱っている

2024年1月29日 礼拝説教 「思い直す神」

  2024 年 1 月 29 日 礼拝説教 「思い直す神」 出エジプト記 32 章 7 節~ 16 節 7節            主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8節            早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9節            主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10節        今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 11節        モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 12節        どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 13節        どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 14節        主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。 15節        モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。 16節        その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。 新約聖書の神様は好きだけど、旧約聖書の神様は嫌いだという人もいます。禁じられた木の実を食べただけでエデンの園から人間を追放し、悪い事ばかりするその子孫を洪水で滅ぼすのは旧約聖書の神様。命を捨てるほ

2024年1月22日 礼拝説教 「石の板と金の子牛」

  2024 年 1 月 22 日 礼拝説教 「石の板と金の子牛」 出エジプト記 24 章 3 節、 12 節、 17 節、 18 節、 31 章 18 節~ 32 章 4 節 3節            モーセは戻って、主のすべての言葉と、すべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、 「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」 と言った。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12節        主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17節        主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。 18節        モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。神はこれらすべての言葉を告げられた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31 章 18節        主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。 32 章 1節            モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、 2節            アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」 3節            民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。 4節            彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。 すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。 5節            アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、 「明日、主の祭りを行う」 と宣言した。 噴火に燃え、地

2024年1月15日 礼拝説教 「律法を超えた掟」

  2024 年 1 月 15 日 礼拝説教 「律法を超えた掟」 出エジプト記 20 章 1 節、 17 節 1節            神はこれらすべての言葉を告げられた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17節        (十番)隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」 新約聖書の約四分の一を書いたパウロという人がいます。ユダヤ教の一番厳しい流派に属し、律法の細かい部分まで徹底的に守る訓練を受けて育ちました。とてもまじめな人だったので、中年になってから「律法に関してはファリサイ派の一員。律法の義については非の打ちどころのない者でした。」と言っています。皆さんの中にもこのような人がいるかもしれません。「先生や、先輩や、親の言うことに背いたことがない。規則もルールも全部守った。嘘をついたこともない。卑怯なこともしていない。聖書にすべての人が罪人だと書いてあるが、自分には当てはまる気がしない。」 しかし、他人から見ても、模範的なユダヤ教徒だったパウロも、ある一つの掟に悩まされました。それは今日読んだ、「隣人のものを一切欲してはならない」という、この最後の戒めでした。一番から九番までの掟は、人の評価を受けられるものばかりで、仕方なく、いやいやながら守っていても、破ったという事実さえなければ、自分は潔癖だと主張できます。しかし、十番目の掟に限って、守っているかどうかがはっきり分かるのは自分だけで、裁きの対象になるのは目に見える行動ではなく、自分の心です。 「欲しいと思っただけで罪になるだろうか。少し厳し過ぎないか。」そう思う人も多いでしょう。パウロはローマの信徒への手紙で、この十番目の掟との葛藤について書いています。「意識していない内は気にならないが、思ってもいけないと知った途端に、強い欲望が湧いて来る。抑えようと思って苦行までするが、最後は逆効果になり、欲してはならない物が欲しいという思いが、ますます強くなる。」ここでパウロはあることに気付きます。「掟を真面目に守ろうと思っている自分の中に、別な力が働いている。」パウロはそれを「罪の力」として意識します。 旧約聖書の前半の中心的な教えは、「神様が与えたルールを守れ。このルールさえ守れば幸せにな

2024年1月9日 礼拝説教 「嘘で人を滅ぼすな」

2024 年 1 月9日 礼拝説教 「嘘で人を滅ぼすな」 出エジプト記 20 章 1 節、 16 節 1節               神はこれらすべての言葉を告げられた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16 節   (九番)隣人に関して偽証してはならない。 「嘘は泥棒の始まり」という諺がありますが、偽証はただの嘘ではありません。裁判所や議会に証人として呼ばれ、「良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,偽りを述べないことを誓います」と宣言した後に嘘の証言をすると偽証罪になり、刑法 169 条に基づいて裁かれます。ただ、偽証罪で裁かれたというニュースはあまり聞かないし、実際はかなり稀なことです。偽証の疑いをかけられても「記憶違いだった」などと、言い逃れできることが多いからです。 しかし、出エジプト記を読み進むと、この九番目の掟に裁判での証言より広い意味があったことがわかります。 23 章の初めに、根拠のないうわさを流したり、事実ではないと知りながら数が多い方についたり、可哀そうだと思って弱い者にえこひいきするのも、あってはならないと書いています。ここまで話を広げると、ほとんどの人に、何らかの心当たりはあると思います。 前回の礼拝で、六番目から八番目の掟を読み、人の命も、結婚相手も、持ち物をも奪うのが罪だという話をしました。この事について十分に納得していただけたと思いますが、今日の話には、もう少し微妙な内容が含まれています。九番目の掟は、かつてあったような、噂が激しく飛び交う村社会には大事な戒めでしたが、誰もが SNS を使う現代社会にも、注目すべき掟です。 暴力を受けたり、持ち物を奪われたりするのはとても辛いことですが、受けた被害が誰から見てもわかることなので、対処の仕様があります。一番やっかいなのは、嘘や、嘘でなくても、事実を少し曲げた話で評判を傷つけられたり、信用を失ったりすることです。人は皆死ぬので、いずれは命や持ち物を失います。失い方にもよりますが、それが名誉なことになることもあります。しかし、どう対処したら良いのか分からなくなるのは、評判を傷つけたり、信用を失わせたりする、言葉の被害を受け時です。 「身体に傷を受ける訳でもなく、財産を失う訳でもないので、気にするな。時がたてば皆が忘れ