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2020年7月6日 礼拝説教 「取るに足りない僕」

2020 年 7 月 6 日 礼拝説教 「取るに足りない僕」 ルカによる福音書 17 章 7 ~ 10 節 7節                   あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8節                   むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9節                   命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10節              あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 現代社会には「僕」という身分はありません。聖書時代の「僕」には借金返済のために自由を失った人たちが多く、労働条件がとても悪かったです。夜明けから日没まで農作業をした後も休ませてもらえず、奴隷に近い扱いを受けました。ヘトヘトになって畑から帰ってきた「僕」は主人の食事の支度をさせられ、「ご苦労様」の一言もないまま一日の勤めを終えました。 精一杯働いた「僕」は最後に「この程度のことしかできなくて申し訳ございません。」と言って謝らなければなりませんでした。今の時代なら、大変な人権問題になりますが、優しいはずのイエス様が、自分の弟子になろうとする人に求めたのは、いくら苦労しても感謝の言葉さえ期待できない、この「僕」の姿でした。 質の高い仕事が賞賛を受けるとは限りません。いつも、奏楽をしてくださる水木先生はヨハン・セバスティアン・バッハの曲をよく弾いてくださいますが、音楽評論家の多くは、このバッハが史上最高の音楽家だったと言います。バッハは何回か転勤しましたが、 65 歳の年齢で亡くなるまでの 27 年間、ドイツの東にあるライプツィヒ市の聖トーマス教会の音楽監督として教会音楽の作曲に励み、驚異的な数の名曲を残しました。 日曜礼拝の演奏が終わると、すぐに次週の礼拝主題に合う曲作りを始め、一週間以内に管弦楽と合唱用にパート別の楽譜を書き上げ、個別の

2020年6月22日 礼拝説教 「躓く小さい者たち」

2020 年 6 月 22 日 礼拝説教 「躓く小さい者たち」 ルカによる福音書 17 章 1 ~ 6 節 1節                   イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 2節                   そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 3節                   あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 4節                   一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 5節                   使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6節                   主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。   イエス様が気に留めていた「これらの小さい者たち」はだれのことでしょうか。「子供」という解釈もできますが、周囲にいる大人たちを指していた可能性もあります。この箇所に登場する「小さい者たち」は躓きやすく、一度反省しても同じ過ちを繰り返し、信仰がとても弱いのが特徴でした。この人たちに対して、イエス様はとても優しい態度を取りました。イエス様の周囲にいる人たちの多くは社会的弱者で、立場の弱さを利用されやすい人たちだったことに配慮していたと思われます。 イエス様は躓いて罪を犯したこの人たちにではなく、罪を犯すように躓かせた、立場の強い人たちに憎しみの言葉を向けました。彼らの罰の重さは、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」と思えるほどだと言いました。近代になって、ひき臼は見かけなくなりましたが、牛や馬などが、粉をひくために回転させる、重さ数百キロもある巨大な石です。このような物を首にかけられて深い海に沈められる人の心境を考えると、この言葉の意味がよく分かると思います。つまり、イエス様は、人の弱さに付け込んで悪

2020年6月15日 礼拝説教 「信じる根拠となる物」

2020 年 6 月 15 日 礼拝説教 「信じる根拠となる物」 ルカによる福音書 16 章 27 ~ 31 節 27節              金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28節              わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29節              しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30節              金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31節              アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 先週、この話の中に「金持ち」の正体についてヒントがあると言いました。紫の衣を着てぜいたくに遊び暮らし、五人の兄弟がいたこの人は一体だれでしょうか。既に死んでいた人ではなく、ユダヤ人の最高指導者、カイアファだったという説があります。カイアファはエルサレムの神殿礼拝から巨大の富を得ていた大祭司一族の長、アンナスの娘婿で、このアンナスには五人の息子がいました。 たとえ話の後半は、どうすればこのような人たちが反省し、生き方を変えるかについての議論になります。「金持ち」は残された家族の行く末を心配し、ラザロが生きかえって現れたら皆、反省するだろうと言います。アブラハムは、仮にそのようなことがあっても、旧約聖書の教えに従わない人たちが反省するはずがないと反論します。 信仰を持つか持たないかの話になると、似たような事を聞くことがあります。神様が本当にいるなら、姿を表せば良いじゃないか。「だったら信じてやるさ」と言う人がいます。そのように言う人は、どのような神様を期待しているでしょうか。 理科の実験で太陽を直接見ないように注意されたのを覚えていると思います。聖書の神様は同じように、人が観察できるほどチャチな存在ではありません。「一度で良いから姿を見せて欲しい」と頼んだ旧約

2020年6月8日 礼拝説教 「地獄絵図」

2020 年 6 月 8 日 礼拝説教 「地獄絵図」 ルカによる福音書 16 章 19 ~ 26 節 19節              「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20節              この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21節              その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22節              やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23節              そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24節              そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25節              しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26節              そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 斜陽館の近くに幼いころの太宰治がよく遊びに行った雲祥寺というお寺があります。ここには少年太宰に大きな衝撃を与えた地獄絵図があります。悪い事をすると閻魔大王に裁かれ、このような恐ろしい所に行かされると脅された子供たちには効果抜群だったようです。今日の聖書の箇所にも、同じような効果が期待できますが、陰府で苦しむ金持ちの罪は何一つ書かれていません。 正体を明かすヒントがストーリーに隠されていると言われていますが、お金が一銭もない陰府の国に行ってもただ、「金持ち」と呼ばれ、名前はありません。対照的に、できものだらけの貧し