2020年6月15日 礼拝説教 「信じる根拠となる物」
2020年6月15日 礼拝説教
「信じる根拠となる物」
ルカによる福音書16章27~31節
27節
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
28節
わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29節
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30節
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31節
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
先週、この話の中に「金持ち」の正体についてヒントがあると言いました。紫の衣を着てぜいたくに遊び暮らし、五人の兄弟がいたこの人は一体だれでしょうか。既に死んでいた人ではなく、ユダヤ人の最高指導者、カイアファだったという説があります。カイアファはエルサレムの神殿礼拝から巨大の富を得ていた大祭司一族の長、アンナスの娘婿で、このアンナスには五人の息子がいました。
たとえ話の後半は、どうすればこのような人たちが反省し、生き方を変えるかについての議論になります。「金持ち」は残された家族の行く末を心配し、ラザロが生きかえって現れたら皆、反省するだろうと言います。アブラハムは、仮にそのようなことがあっても、旧約聖書の教えに従わない人たちが反省するはずがないと反論します。
信仰を持つか持たないかの話になると、似たような事を聞くことがあります。神様が本当にいるなら、姿を表せば良いじゃないか。「だったら信じてやるさ」と言う人がいます。そのように言う人は、どのような神様を期待しているでしょうか。
理科の実験で太陽を直接見ないように注意されたのを覚えていると思います。聖書の神様は同じように、人が観察できるほどチャチな存在ではありません。「一度で良いから姿を見せて欲しい」と頼んだ旧約聖書のモーセに神様は答えます。「人はわたしを見てなお生きることができない。」ローマの信徒への手紙の中でパウロは次のように言います。「目に見えない神の性質…は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」
昔の人たちが神話を使って説明した自然現象の多くは、現代科学によって解明されました。しばらくすると新型コロナウイルスに勝つ方法も発見されるでしょう。聖書の言葉は、人が無知だった時代の物として片づけるべきだと主張する人もいます。しかし、解明が進めば進むほど、人は自然界の神秘の深さに驚き、命を精密に設計した超自然的な存在を意識し、改めて信仰へと導かれます。
2003年にヒトゲノム計画によって人間の遺伝情報の解明が完成したかのように見えました。神聖と思われて来た人の命もそろそろ、人の頭で理解できるものになるという期待が高まりました。しかし、このデータの研究が進めば進むほど、想像を絶する事実が次々と明らかになりました。
先日、世界的に権威があるサイエンス誌の記事を読みましたが、細胞核にある染色体が丼ぶりに入った麺類のように絡み合い、くっ付いたり離れたりしながら生命体を作る指示を出しているという説明がありました。命の神秘がわかりやすくなるどころか、想像していたより、はるかに不可解なものであるという事実が明らかになっています。
3,000年くらい前に詩編139篇を書いたダビデはつぎのように言いました。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった…わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか…。」
この言葉は今になっても力を失っていません。人は神を信じるために怪奇現象を見る必要はありません。恐ろしく、精密にできた自分の命の仕組みにも、その元となるお方を信じるのに十分な根拠が、人間に与えられています。科学がいくら進歩しても、この事実は変わることがないでしょう。
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