2024年8月26日 礼拝説教 「羊飼いの即位」

 2024年8月26日 礼拝説教

「羊飼いの即位」

サムエル記上 1610節~13

10節           エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」

11節           サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」

12節           エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

13節           サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

 夏休み中に突然、岸田総理大臣は自民党の総裁選に出馬しないと発表しました。これで九月の終わりに新しい総理大臣が決まることになりましたが、我こそはと思う国会議員は次々と手を上げています。決めるのは自民党の党員と国会議員ですが、古代のイスラエルで見切りを付けられたサウル王に代わる王様を選ぶ責任を任せられたのは、年老いた預言者のサムエルでした。

神様から、お目当ての人はベツレヘムに住むエッサイの子供の一人だと知らされたサムエルは、ベツレヘムに出かけました。そこでエッサイの子供との面会を始めましたが、「この人だ」と心に響く神様の声は聞こえてきませんでした。エッサイは順番に、七人の息子を紹介しましたが、サムエルは不思議に思いました。「この中にはいない。きっと他にもいるはずだ。」

「息子さんはこれだけですか。他にはいませんか。」と尋ねるとエッサイは思い出したかのように言いました。「アッ!末っ子もいますが、羊の番をしています。なにしろ、まだ子供ですから。」「そんなことを言わずに、早く連れて来ないさい。」サムエルの指示を受け、皆でしばらく待つことになりましたが、とうとう、汗だくになった、頬っぺたの赤い少年が入って来ました。

 一説では、正式な妻の子ではありませんでした。他の兄弟と違うお母さんから生まれた少年は、家の近くで農作業をする兄たちの仲間に入れてもらえませんでした。毎朝、羊たちを預けられ、牧草を探しに山奥に行かせられました。暇そうな仕事に思えるかもしれませんが、羊が迷子になることもあれば、猛獣に襲われることもありました。

 寂しい日々を過ごしながら、少年は二つの特技を身に付けました。小さな竪琴を弾きながら作詞、作曲して、たくさんの名曲を作りました。もう一つは、その当時の戦場で武器として使うことが多かった石投げの名人になり、拾った石を弾丸のように、遠くまで正確に投げる技を磨きました。

羊を奪いに来るライオンや熊と対峙することもありましたが、声を上げて兄たちを呼んでも助けに来ません。常識では、ライオンの口にくわえられた羊を諦め、石や杖で追い払うのが限界でしょう。しかし、羊をこよなく愛するこの少年は違いました。大胆にもライオンのひげをつかんで打ち殺しました。

助けられた羊にますます慕われた少年は神様に感謝しました。羊を守っていたのは自分だ。しかし、ライオンの口から自分を守った方もいる。その時に作ったのは、旧約聖書にも、讃美歌にもある羊飼いの詩、詩編23篇でした。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。・・・死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」

このように成長して行く少年の様子は家族を含め、一人のお方を除いて誰の目にも留まりませんでした。その一人のお方というのは、イスラエルの王に相応しい人を探し求めていた、すべての人の心をことごとく知る、神様ご自身でした。「この少年は誰よりも純真な気持ちで、イスラエルの神である私を愛している。そればかりか、命をかけて預けられた生き物を守る情熱と勇気がある。サウルに代わってイスラエルの王にしよう。」そのように意思を固めた神様は預言者サムエルに語りかけました。「ベツレヘムのエッサイのもとに行きなさい。その息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」

エッサイの末っ子はサムエルの前に立ちました。名前をダビデというこの少年は、父親の目にも兄たちの目にも、まだ子供のようにしか映りませんでした。しかし、預言者サムエルには神様にしか見えない、本当の姿が見えました。「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。」

救い主を指す「メシヤ」という言葉の意味は「油注がれた者」です。神様から特別な任務を受けた証拠として、預言者や祭司は選ばれた人の頭にオリーブ油を注ぐのがイスラエル人の習慣でした。つまり、ダビデは父親と兄たちの前で、王様になったという印に当たる、即位の礼を受けたことになります。

年老いたサムエルはこの日を境にイスラエルの表舞台から身を引きました。ダビデが名実ともに王様になるのを見ることがないまま、最期を迎えましたが、神様に選ばれた人物が次の世代を担い、イスラエルを導いて行くという確信を抱きながら死にました。対照的にダビデには「その日以来、主の霊が激しく降るようになった。」と書いてあります。

立派そうに見えても人は皆、弱い者で、リーダーになったからと言って超人的な力が備わる訳ではありません。人生のほとんどは平凡で、前の日と変わりない日常の連続です。しかし、誰にも一生に何度かは正念場を迎え、普段の何倍もの力を発揮しないと切り抜けられない局面に出合います。そのような時に、ごく普通の人が変身して英雄に様変わりすることがあります。聖書はこの現象を「主の霊が激しく降った」と言って表現していますが、人の心に神様の霊が宿り、人の思いを超えた神様の業が実行されます。

ダビデの頭に油を注いだサムエルはこれ以上のことをしませんでした。ダビデを王の宮殿に連れて行くこともなく、イスラエルの国民に紹介することもありませんでした。サムエルは実家があるラマに戻り、ダビデの生活はこれまでとほとんど変わりませんでした。サムエルの指名を受けたダビデを待っていたのは王様に相応しい、恵まれた生活ではなく、何度も殺されそうになる苦難と試練の道でした。

旧約聖書に登場してきた、これまでの人物を思い出してください。神様が特別なことをするに当たって、どのような人を選び、その人をどのように鍛えるかを示す例がいくつもあります。ダビデはアブラハムやモーセに並ぶ、その最たる例の一人です。これから、しばらくはダビデの生涯から学び、神様から私たちに向けられた期待にどう応え、どのようにして最高の人生を送れば良いのかを考えたいと思います。

皆が世間に知れ渡る、目立った存在になることはないかもしれません。しかし、ここにいる一人ひとりは必ず周囲の人たちを困らせる深刻な問題に立ち向かい、生まれ持った能力を超えた力を発揮し、人の苦しみを和らげ、より良い社会を作る機会に出会うことになるものと信じています。ダビデの例にならって、この東奥義塾で神様の油注ぎを受け、これから待ち受ける人生の大冒険に備えて欲しいと思います。

長い夏休みは終わりました。剣道部員は全国大会で優勝に匹敵する三位の成績を上げました。合唱部は全国高文連に参加して表彰を受けました。硬式野球部は甲子園まで後一歩のベスト4まで進みました。夢に見た最高位に達したとは言えないにしても、挑んだ山の険しさに誇りを持ち、全力を尽くした成果に満足できたことと思います。

その他の皆様はどうでしょうか。チャンスを活かして新しい力を付け、今までにない希望を抱いて新学期を迎えることになりましたか。それとも、無駄にしてきた時間の経過に焦り、早く挽回しようという思いで、この日を迎えたでしょうか。

いずれにせよ、これからは涼しくなり、実りの秋を迎えます。夏の暑さから解放され、息を吹き返し、みごとなスタートを切って欲しいです。一人ひとりが目指す収穫を確実につかむ時を迎えることを願います。中高共に、三年生は受験という試練に備え、雪が降る季節まで毎日のように、皆でこの場所に集まることになります。後に振り返って実に良かったと言える二学期になるように、心から祈ります。

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