Posts

Showing posts from February, 2024

2024年3月1日 卒業式 「次の代に託された夢」

2024 年 3 月 1 日 卒業式 「次の代に託された夢」 申命記 31 章 6 節 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」  子供が大人になるまでに通らなければならない道はとても長く、年月の数では、大人として過ごす時間よりはるかに短いとは言うものの、覚えてもいないほど小さい頃から始まる過程なので、これまでの十八年を振り返ると、一生分と思えるほどの思い出が詰まっていることと思います。今日は、生まれて初めての卒業式ではありません。成長の通過点として、とても大事だった小学校や中学校の卒様式もありました。しかし、その時は卒業したからと言って、これと言った自由が得られた訳ではありません。次の学校に進んでもいろいろな束縛があり、窮屈に思うことも多かったと思います。対照的に、この日の卒業式には決定的な違いがあります。経済的自立はまだ遠く、進もうとする世界にも様々な制約があるかもしれません。しかし、管理を受ける子供として過ごしてきた日々は、この日を境に終了します。 これからは、独自の存在として役に立つ人間になる必要に迫られ、同年代とほぼ同じことを学ばされてきた今までと違って、周囲の人たちと違うことを学び、自分にしかない専門性を極める過程が始まります。姿や恰好に制限がかかり、思うようにセンスを表現できなかった日々も終わり、だれにも強制されることのない、自分に良いと思う描き方ができる人生が始まります。その一方、進むべき道にコースを表示する物はありません。朝起こす人も、門限を強制する人もいなくなります。このような自由を手にする皆様には、多少の不安があるのも否定できないと思います。 昨年の四月から毎週、月曜日の礼拝で、イスラエル人の奴隷解放と荒野での旅の物語、旧約聖書の出エジプト記から学んできました。古代文明の中で、ナイル川のおかげで洪水や干ばつの影響を受けにくく、浮き沈みの少ない、安定した豊かさを誇っていたのはエジプトでした。その国で奴隷生活を強いられたイスラエル人たちは、過酷な労働に苦しみながら、食べ物と飲み水に不足することはありませんでした。  エジプト脱出の主人公であるモーセは、神様からの命令を受け、エジプト人による束縛

2024年2月26日 礼拝説教 「同行してくださる神」

  2024 年 2 月 26 日 礼拝説教 「同行してくださる神」 出エジプト記 33 章 1 節、3節 ~4節、 12 節~15節、17節、34章1節 1節               主はモーセに仰せになった。・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3節               あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」 4節               民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12節          モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13節          ・・・どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」 14節          主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、 15節          モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17節          主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 34 章 1節               主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。 卒業式の最後に、「神ともにいまして」という讃美歌を歌って卒業生を送り出すのが東奥義塾の伝統です。歌詞の内容は、また会う日まで神様が共にいてくださるようにとの祈りです。「目には見えないが、間違いなくそばにいてくださる。」これは何千年も前からイエス様を信じて来た

2024年2月19日 礼拝説教 「真の愛国者」

  2024 年 2 月 19 日 礼拝説教 「真の愛国者」 出エジプト記 32 章 31 節~ 34 節 31節        モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。 32節        今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば …… 。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」 33節        主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。 34節        しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」 モーセの時代から千年以上たってからのことですが、イエス様は弟子たちに次のように言いました。「どんなことよりも、あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。」この世で生きている限り、良いこともあれば、悪いこともあります。しかし、人生の上がり下がりの中で変わらないのは、神様に愛されていることであり、その本の中に自分たちの名前が記されていることです。そこに自分の名前がある限り、何があっても大丈夫です。 聖書の中で、神様のこの本が最初に出て来るのは、今日読んだこの箇所です。モーセは自分の名前も、イスラエル人の名前も記されていることを知っていました。しかし、金の子牛を造り、それを拝んだイスラエル人の名前は今にも消されそうになっていました。「彼らの罪を赦してください」と必死に願うモーセは、自分の命よりも大事な物を差し出して言いました。「あなたの愛と救いを受けることができる人たちのリストから私の名前を消してください。その代わり、イスラエル人たちの名前を残してください。」 新約聖書を読むと、同じような事を言う人がいます。前にも紹介したパウロという人です。この人には人間として誇れる物がたくさんありました。しかし、イエス様の救いの恵を知ると、それまでの実績の数々をゴミほどの価値しかないと思うようになりました。そのパウロが気に留めていたのはモーセと同じように、イスラエル民族のことでした。いくら熱心にイエス様の救いについて伝えても、彼らはそれを受け入れようとはし