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2019年1月15日 始業礼拝 「主の祈りー御名と御国」

2019 年 1 月 15 日始業礼拝 「主の祈りー御名と御国」 ルカによる福音書 11 章 1 節~ 4 節  1節               イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2節               そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『 父よ、 御名が崇められますように。御国が来ますように。 3節               わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4節               わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」   祈りは本当に聞かれますか?宗教の世界に接した方でこの疑問を抱いたことのない人は少ないと思います。私は生まれた時からキリスト教に深く関わって来た人間で、このことについて何度も考えてきましたが、ここで答えを出しましょう。「もちろんです。聞かれます。」心に何かの願いを抱いてこの礼拝堂に入って来た生徒がここにいるなら、少しも躊躇しないで、先月、話をしたように、素直に神様に「お父さん」と呼び掛け、心にあるその思いを伝えてください。声を出すのが恥ずかしいなら、心の中で念じるだけでもかまいません。宇宙を動かす力を持つ方がその祈りを聞いてくださいます。これは長い年月かけて私が考え抜いて得た理屈抜きの結論です。祈りは必ず聞かれます。  そんな馬鹿な。塾長の頭がおかしいんじゃないの?ここにいる三年生が皆、進路希望を口に出して祈ったら全員合格になるとでも言いたいの?そのようなことを考えながら、この話を聞いている生徒も多いと思いますが、私が言いたいのはそういうことではありません。合格祈願の半分以上は叶いません。これは神社に行っても、教会に行っても、少しも変わりません。 祈る人が増えたからといって、人気がある学校の定員が増える訳でもないし、時間をかけて祈るくらいなら、勉強に打ち込んだ方が、よほど効果があるのは言うまでもありません。安全祈願をしても、安全運転を怠ると必ず事故に合うのと全く同じことです。  私が言ったのは祈りが聞かれると

2018年12月17日 礼拝説教 「主の祈りーアッバ」

2018 年 12 月 17 日礼拝説教 「主の祈り-アッバ」 ルカによる福音書 11 章 1 節~ 4 節  1節                   イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2節                   そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。 3節                   わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4節                   わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」   猿やイルカのような賢い動物は、人から餌を手に入れる方法を知ると、ねだったり芸を演じたりします。しかし、人間が教えた芸ではない限り、間違っても神や仏に向かって手を合わせることはしません。目に見えない相手に願い事をするのは人間の習性で、この不思議な行動は人間社会がある所では、世界のどこに行っても見られます。祈りは声を出してする場合もありますが、心の中で静かに念じるだけで十分だと感じる人たちも多くいます。祈りは欲深い人がすることでしょうか。確かに、祈りの大部分を占めているのは家内安全や商売繁盛などの願い事です。しかし、日常的に時間をかけて深く祈る人は、目に見えない世界を強く意識しているからか、物欲がむしろ希薄だと言えるでしょう。  イエス様の弟子たちは以前からあることを気に留めていました。どれほど人が押しかけ、どれほど注目の的になっても、イエス様には姿を消して人のいない場所に行き、長時間祈る習慣がありました。睡眠時間を削り、食事をとる機会を失ってもこのように過ごす恩師の姿を見た弟子たちは、この行動に不思議な力を感じました。弟子たちは、暗唱した旧約聖書の祈りを唱えたり、個人的な願い事を並べたりして真似しても、イエス様が祈る時に感じられる、あの不思議な世界には遠くも及ばないという実感がありました。  「イエス様は模範を示すが、祈りについて何も教えてくれない。あの姿に近づくにはどうすれば良いのだろう。」思い