2018年12月17日 礼拝説教 「主の祈りーアッバ」

20181217日礼拝説教
「主の祈り-アッバ」

ルカによる福音書111節~4節 

1節                  イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2節                  そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
3節                  わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4節                  わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 猿やイルカのような賢い動物は、人から餌を手に入れる方法を知ると、ねだったり芸を演じたりします。しかし、人間が教えた芸ではない限り、間違っても神や仏に向かって手を合わせることはしません。目に見えない相手に願い事をするのは人間の習性で、この不思議な行動は人間社会がある所では、世界のどこに行っても見られます。祈りは声を出してする場合もありますが、心の中で静かに念じるだけで十分だと感じる人たちも多くいます。祈りは欲深い人がすることでしょうか。確かに、祈りの大部分を占めているのは家内安全や商売繁盛などの願い事です。しかし、日常的に時間をかけて深く祈る人は、目に見えない世界を強く意識しているからか、物欲がむしろ希薄だと言えるでしょう。

 イエス様の弟子たちは以前からあることを気に留めていました。どれほど人が押しかけ、どれほど注目の的になっても、イエス様には姿を消して人のいない場所に行き、長時間祈る習慣がありました。睡眠時間を削り、食事をとる機会を失ってもこのように過ごす恩師の姿を見た弟子たちは、この行動に不思議な力を感じました。弟子たちは、暗唱した旧約聖書の祈りを唱えたり、個人的な願い事を並べたりして真似しても、イエス様が祈る時に感じられる、あの不思議な世界には遠くも及ばないという実感がありました。

 「イエス様は模範を示すが、祈りについて何も教えてくれない。あの姿に近づくにはどうすれば良いのだろう。」思い悩んでいると、以前はバプテスマのヨハネの弟子だった一人は思い出しました。「バプテスマのヨハネは弟子たちに祈る言葉を教えてくれた。イエス様にお願いすれば、祈っている時に感じられる、あの不思議な世界に入る方法を教えてもらえるかもしれない。」祈りの時が終わったのを見計らってその弟子は思い切って頼んで見ました。「私たちに祈りを教えてください。」しばらく考えてからイエス様は口を開いて言いました。「祈る時はこう言いなさい。」

 イエス様がそれから、弟子たちに教えたのは人類史上、どの言葉よりも多くの人たちに暗唱されてきた、後に「主の祈り」と呼ばれるようになる言葉でした。ルカによる福音書にあるこのバージョンは、マタイによる福音書の「主の祈り」より短くまとまっていますが、要点が揃っていて、肝心な部分はみな同じです。ユダヤ教徒が唱える「シェマ―」と同じように、「主の祈り」は何かがあるとキリスト教徒が必ず口にする言葉になりました。

 「祈るときには、こう言いなさい。『お父さん』。」聞きなれた私たちにはあまり違和感がありませんが、初めて聞いた弟子たちの耳には、祈りの言葉としてとても変に聞こえました。それまで、神様にこのような呼びかけをする人はいませんでした。しかも、イエス様が使った言葉は堅苦しい「お父上」のような言葉ではなく、「アッバ」という、小さな子供が親しみを込めて使う「とうちゃん」に近い響きのある言葉でした。神様と十分な距離を取ることに細心の注意を払うユダヤ人は、神様の名前を口に出すことさえ恐れました。その神様に対して「アッバ」と言いなさいと言われた弟子たちは戸惑いました。

 「先生、神様に対して、そのような呼び方でいいんですか?」イエス様は答えました。「いいんだよ。神様はだっこを求めて手を差し出す、小さな子供のような人に特別な思いを抱いています。恰好を付けることなく、素直に近づく人を喜びます。祈る時は『とうちゃん』と言って、神様に呼び掛けなさい。」これは祈りを教えるイエス様の最初のレッスンでした。弟子たちは神秘的なイエス様の祈りの世界に、最初の一歩を踏み入れた気になり、心臓がドキドキしていました。

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