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2021年6月21日 礼拝説教 「お前は神の子か」

  2021 年 6 月 21 日 礼拝説教 「お前は神の子か」 ルカによる福音書 22 章 63 ~ 71 節 63節              さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。 64節              そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。 65節              そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。 66節              夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、 67節              「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。 68節              わたしが尋ねても、決して答えないだろう。 69節              しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」 70節              そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」 71節              人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。 メディアは定期的に誰かをやり玉に上げ、お祭り騒ぎのようなバッシングが始まります。責める側は僅かな隙も見逃すことなく、その勢いは止まりません。しばしば、些細なことが大事として扱われ、どのような弁解をしても、人は耳を貸しません。騒ぎの目的はそもそも、気に食わないヤツを引きずり下ろすことなので、冷静な議論は意味をなさなくなります。イエス様の裁判も初めから結論ありきのもので、公平な裁きを期待することはできませんでした。 最高法院は、祭司長と律法学者、総勢 71 名からなるユダヤ人の最高裁判所に当たる機関で、ローマ帝国の利害に関わらない事件を任されていました。ただ、死刑判決を出す権限はなく、極刑を求める場合はローマ総督の判断を仰がなければなりませんでした。早朝から行われたこの裁判は、初めから正義の確立とは縁のないもので、目的はただ一つ、ナザレのイエスを速やかに消去することでした。 ファリサイ派を中心とする律法

2021年6月14日 礼拝説教 「激しく泣いた人」

  2021 年 6 月 14 日 礼拝説教 「激しく泣いた人」 ルカによる福音書 22 章 54 ~ 62 節 54節              人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 55節              人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 56節              するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。 57節              しかし、ペトロはそれを打ち消して、 「わたしはあの人を知らない」 と言った。 58節              少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。 59節              一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 60節              だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 61節              主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 62節              そして外に出て、激しく泣いた。 新約聖書の登場人物の中でペトロほど分かりやすい人はいないと思います。性格は単純そのもので、計算ずくめの言葉はなく、行動は衝動的でした。「無学で普通の人」と言われていましたが、イエス様への思いは尊敬や忠誠を通り越して、大好きでたまらなかったと言えます。この時から数時間前に、「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と言い切ったペトロの気持ちに偽りはなく、本気そのものでした。逮捕の瞬間、刀を振り回し、決死の覚悟で師匠を守ろうとしたのはペトロでした。捉えに来た人たちに襲いかかった張本人でありながら、御用となったイエス様の後を追い、大祭司の中庭に忍び込んだのもペトロでした。 神殿の境内から商人を追い出した時も、その後も、神殿の警護