2021年6月14日 礼拝説教 「激しく泣いた人」

 

2021614日 礼拝説教

「激しく泣いた人」

ルカによる福音書225462

54節             人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。

55節             人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。

56節             するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。

57節             しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。

58節             少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。

59節             一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。

60節             だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。

61節             主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。

62節             そして外に出て、激しく泣いた。

新約聖書の登場人物の中でペトロほど分かりやすい人はいないと思います。性格は単純そのもので、計算ずくめの言葉はなく、行動は衝動的でした。「無学で普通の人」と言われていましたが、イエス様への思いは尊敬や忠誠を通り越して、大好きでたまらなかったと言えます。この時から数時間前に、「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と言い切ったペトロの気持ちに偽りはなく、本気そのものでした。逮捕の瞬間、刀を振り回し、決死の覚悟で師匠を守ろうとしたのはペトロでした。捉えに来た人たちに襲いかかった張本人でありながら、御用となったイエス様の後を追い、大祭司の中庭に忍び込んだのもペトロでした。

神殿の境内から商人を追い出した時も、その後も、神殿の警護兵は何もしなかったため、ペトロは次第に怖いもの知らずになっていました。しかし、とうとう、本気になって牙をむいてきた当局に対してなす術がないと知り、気づかれまいと思って焚火にあたっていました。大祭司に仕える女中の一人が、恐怖と無力感にさいなまれたペトロをじっと眺め、しばらくすると口を開きました。「この人も一緒にいました。」

「その通りだ。俺はナザレのイエスの直弟子だ。文句でもあるか。」本当はそのように答えたかったでしょうが、抵抗の仕様もない、国家権力を見せつけられたペトロはビビっていました。「わたしはあの人を知らない。」口から出てきた言葉があまりにも情けなかったので、一番驚いたのはしゃべった本人でした。しかし、一回嘘をつくとどう仕様もなくなり、同じ事を繰り返す羽目に陥ってしまいました。三回否定すると、囚われの身となっていたイエス様が振り向き、慌てふためくペトロと目が合いました。この時、自分のしたことの重大さに気が付き、耐えがたい悲しみと絶望感に押しつぶされたペトロは大祭司の中庭から出て行き、激しく泣きました。

この同じ時、後悔のあまりに自分に幻滅していたのはペトロだけではありませんでした。マタイによる福音書によると、イエス様を敵に売り渡したユダも、自分のしたことを悔やみ、耐えられない思いになっていました。ペトロと同じようにその場を離れたユダは、自分で始末をつけようと思って首をつり、自ら命を絶ちました。

ユダとは対照的に、その後のペトロは復活のキリストに出会い、キリスト教会の最初のリーダーになりました。悲痛な思いから生まれたのは深い悔い改めで、どんな罪をも赦すキリストへの堅い信仰でした。晩年になり、ペトロはローマに連れて行かれ、ネロ皇帝の下でイエス様と同じ目に合わされました。ただ、ペトロは逆さ刷りに十字架に付けられ、殉教しました。何十年も前にイエス様に言った「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」という言葉を実行して生涯を終えました。

 イエス様がペトロに贈った言葉も見事に当たりました。「あなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」この場面がすべての福音書に詳しく記されていることから、ペトロが何度も、隠すことなく、この話をしたことがわかります。イエス様に言われた通り、この事実を伝えることが仲間への励ましになると信じていました。

人を幸せに導き、神様に喜ばれる人生を送る人は皆、激しく泣くペトロの姿に自分を重ねます。恥をかかない、つまずかない、失敗しない人間は一人もいないのがキリスト教の前提です。世界の歴史を根本から変えることになった弟子たちは、イエス様が逮捕されたこの夜の出来事を一生、忘れませんでした。怯えていた割に、逮捕する価値もないと見なされた彼らは後に、「弱い時にこそ強い」と信じるようになりました。強い者しか相手にされない古い時代に幕が下ろされ、すべての人の心に希望の光が差し込む、新しい時代が始まろうとしていました。

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