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Showing posts from February, 2020

2020年3月2日 卒業式 「光と輝く人」

2020 年 3 月 2 日卒業式 「光と輝く人」 詩編 34 篇 6 節、 8 節 6 節     主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。 8 節     主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。   聖書にも武勇伝があります。その中で最も有名なのはダビデ物語です。少年ダビデは羊を猛獣から守り、巨人ゴリアテを倒し、成人して国王になり、エルサレムに都を築き、イスラエル国家の基を築きました。現代イスラエルの国旗の中央にあるシンボルはダビデの星です。しかし、後世の人たちの心を揺さぶる存在にまでさせたのは、ダビデの武功ではありませんでした。それはむしろ、弱さや過ちに真っ正直に向き合うダビデの内面的な葛藤が、旧約聖書のいくつもの箇所にさらけ出されているからです。 家族に虐げられ、忠実に仕えた主君にも裏切られたダビデはいつも、イスラエルの神を慕い求め、どんな時にも心の拠り所にしました。ダビデの人柄と、内なる思いの生々しい記録として残っているのは、作詞家でもあったダビデが書いた旧約聖書の詩編です。詩編を読む人には、良い時にも悪い時にも、純情で一途な思いを神に激しく訴えるダビデとの、心に迫る衝撃的な出会いが待っています。  先ほど阿部宗教主事に読んでいただいたのもダビデの詩で、一生を通じて最も惨めな思いをした時に作詞した言葉からの抜粋です。命が危険に晒され、主君の敵の前で赤っ恥をかかされ、命からがらに逃れた直後のことでした。穴があったら入りたいと思うならこの時でしたが、ダビデは顔を上げて歌いました。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」いつも純粋な思いでイスラエルの神を愛したダビデの心を支えたのは、何があっても神様が傍に付いているという、揺らぐことのない確信でした。  敵に隙を見せて妻子を奪われ、自暴自棄になった家来たちから殺されそうになった時、ダビデは「苦しんだが、その神、主によって力を奮い起こした。」と書いてあります。生死の境をさまよう多くの方々の励みとなった羊飼いの詩、 23 篇に次の言葉があります。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」 27

2020年2月17日 礼拝説教 「一枚たりない」

2020 年 2 月 17 日礼拝説教 「一枚たりない」 ルカによる福音書 15 章 8 節 ~ 10 節 8節                   あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9節                   そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10節              言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」       高校生が一万円札を何枚も財布に入れて持ち歩くのは危険なことです。少なくとも、高価な買い物をしに学校に来る生徒はいないので、財布に入れるお金はせいぜい、数千円を限度にした方が良いと思います。  しかし、仮に財布に一万円札が十枚入っていたとしましょう。気になるので一日に数回、その数を確認します。ある日、数えてみると九枚しかありません。「変だな」と思って数え直します。しかし、何回数えても同じです。一枚たりません。「これは大変だ」と、焦りの気持ちに襲われます。 ドラクメ銀貨。一般的にはドラク マ と言いますが、アレキサンドロス大王が地中海付近に広く普及させた貨幣のことです。現在のお金で言うと 1 万円くらいの価値がありましたが、今はコレクター向けのサイトで、数十万円の値段が付いて売りに出されています。 新約聖書時代のイスラエルでは婚約の証として、お婿さんになる人は婚約者に十枚のドラクメ銀貨をプレゼントしました。受け取った娘さんは、この銀貨を布のベールに縫い込み、出かける時は必ずかぶるようにしました。結婚相手が決まった、結婚の日を待っている女性としての身分を公にする意味がありました。  十枚の銀貨に結納金の意味が含まれていたと思うと、一枚なくしたこの娘さんの狼狽ぶりはよく理解できると思います。婚約指輪をなくしたのに等しい焦りを感じたことでしょう。当時の家の屋内が暗かったので「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜しました。」  見つかった時の喜び様は半端なものではありません。見つからない内は恥ずかしくて人

2020年2月10日 礼拝説教 「迷える羊は誰のこと」

2020 年 2 月 10 日礼拝説教 「迷える羊は誰のこと」 ルカによる福音書 15 章 1 節 ~ 7節 1節               徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2節               すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3節               そこで、イエスは次のたとえを話された。 4節               「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5節               そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6節               家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7節               言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」   日本には 2 万頭の羊しかいませんが、世界には 11 億頭います。これは人に飼われている動物の中では、トップの座を占める牛の 15 億頭に続く数で、犬や猫よりも多いです。多くの国で、羊毛と羊肉の両面から人を支える羊は生活の必需品です。羊は外敵から身を守る手段がない、とても臆病な動物です。知らない人が近づけばすぐに逃げますが、信頼を置く羊飼いであれば、傍から離れようとしません。 出産の際に母親を亡くした子羊に、哺乳瓶からミルクを飲ませた経験がありますが、離れようとすると「メーメー」と鳴きながら必死について来ました。子羊から向けられた強い気持ちに応えたいという思いもありましたが、いつまでも付き合う訳には行かず、心は辛い気持ちでいっぱいになりました。 特殊な場合を除くと、ニュージーランドの羊は飼い主と深い絆を築くこともなく、あくまでも家畜として一生を終えます。しかし、新約聖書時代の中東では状況が違いました。羊飼いについて行かないと牧草があるところに行けないと知っていた羊たちと、名前をつけて個別に呼んでくれる羊飼い

2020年2月3日 礼拝説教 「違いを作る人」

2020 年 2 月 3 日礼拝説教 「違いを作る人」 ルカによる福音書 14 章 34 節 ~ 35 節 34節           「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 35節           畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」 湿気が原因で塩入れを振っても塩が出にくくなることがありますが、振った塩が塩っぽくなかったという体験をした人はいないと思います。そんなことがあったら、入っていたのは塩ではなく、違う物質だったと考えるのが普通でしょう。しかし、新約聖書が書かれた頃のイスラエルで使われた塩のほとんどは死海の沿岸から掘り出された岩塩でした。この塩には様々な物質が混ざっていたので、雨や湿気に晒されると塩化ナトリウムが溶け出し、塩分が入っていない物が残ることもありました。 そうなった場合、「塩が塩気を失った」と言い、高価な物として重宝された塩が、役に立たない物として外に投げ捨てられることになりました。 塩がどれほど高価な物だったかを知る手掛かりは、ローマ軍の兵隊に支給された給料に見られます。塩漬けは食物の保存法としてとても重要だったので、現金ではなく、何があっても価値が変わらない塩が支給されることが多く、ラテン語の「塩」という言葉が、サラリーマンの「サラリー」の語源になったと言われています。今でも英語には給料泥棒を指して「もらっている塩に値しない」、 “not worth his salt” という表現があります。 その他に、料理通であれば「一つまみの塩」の大切さがわかると思います。本の少しの塩を加えると苦みが抑えられ、甘味などの味が引き立ちます。いくら砂糖を入れても、塩を加えないと小豆は甘くならないし、喫茶店のマスターはココアに本の僅かの塩を入れてからお客様に出します。イエス様が言うように「確かに塩は良い物です。」     マタイによる福音書に同じような箇所がありますが、冒頭に「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉が付いています。これをヒントに今日の箇所を読み直すと、塩に例えられているのは私たち人間であることに気が付きます。塩気は人間の心に宿る良心のことで、塩気を失うのは、その良心が鈍ることを意