2020年2月3日 礼拝説教 「違いを作る人」
2020年2月3日礼拝説教
「違いを作る人」
ルカによる福音書14章34節 ~ 35節
34節
「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
35節
畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
湿気が原因で塩入れを振っても塩が出にくくなることがありますが、振った塩が塩っぽくなかったという体験をした人はいないと思います。そんなことがあったら、入っていたのは塩ではなく、違う物質だったと考えるのが普通でしょう。しかし、新約聖書が書かれた頃のイスラエルで使われた塩のほとんどは死海の沿岸から掘り出された岩塩でした。この塩には様々な物質が混ざっていたので、雨や湿気に晒されると塩化ナトリウムが溶け出し、塩分が入っていない物が残ることもありました。そうなった場合、「塩が塩気を失った」と言い、高価な物として重宝された塩が、役に立たない物として外に投げ捨てられることになりました。
塩がどれほど高価な物だったかを知る手掛かりは、ローマ軍の兵隊に支給された給料に見られます。塩漬けは食物の保存法としてとても重要だったので、現金ではなく、何があっても価値が変わらない塩が支給されることが多く、ラテン語の「塩」という言葉が、サラリーマンの「サラリー」の語源になったと言われています。今でも英語には給料泥棒を指して「もらっている塩に値しない」、“not worth his salt”という表現があります。
その他に、料理通であれば「一つまみの塩」の大切さがわかると思います。本の少しの塩を加えると苦みが抑えられ、甘味などの味が引き立ちます。いくら砂糖を入れても、塩を加えないと小豆は甘くならないし、喫茶店のマスターはココアに本の僅かの塩を入れてからお客様に出します。イエス様が言うように「確かに塩は良い物です。」
マタイによる福音書に同じような箇所がありますが、冒頭に「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉が付いています。これをヒントに今日の箇所を読み直すと、塩に例えられているのは私たち人間であることに気が付きます。塩気は人間の心に宿る良心のことで、塩気を失うのは、その良心が鈍ることを意味します。他の動物と違って、人間は自分や、所属する集団の行動に対して心の引っ掛かりを感じ、自己嫌悪感に苛まれることもあります。
このような気持ちは愉快なものではありません。「ならぬものはならぬことです」と悟り、気になって眠れなくなることがあります。謝りたくないのに、「ごめんなさい」と言わなければならない自分に気付かされます。煙たがられると知りながら、この場合は皆の行動を諫めるしかないと悟ります。放っておけば楽なのに、仲間外れにされた人の気持ちになって声をかけるべきだと思うようになります。「長い物には巻かれろ」では済まされない事態に直面し、強い物に真っ向から立ち向かわなければならない場面に遭遇します。
しかし、人間社会が人間らしいものであり続け、弱肉強食に陥ることなく、すべての人に生きる場所を保証してあげようと思うなら、このような気持ちを保つのはとても大事なことです。一人でもこのような思いを大切にする人がいれば、集団として大きな間違いを犯さずに済むことがあります。
その一方、塩の役割を果たす人がいなくなれば、人は落ちるところまで落ちます。東奥義塾という学校があるのは、塩気を失わない人間を育てるためです。いつまでたっても、いくら知恵がついても、塩気を失わないでください。地の塩になる自覚を持つようにしてください。あなたの一言は横暴な力に待ったをかけ、周囲を明るくするのに役立ちます。
「塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。」このような人間にならないようにしましょう。
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