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2021年9月6日 礼拝説教 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」

2021 年 9 月 6 日 礼拝説教  「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」   ルカによる福音書 24 章 1 ~12節 (婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。) 1節                   そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 2節                   見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 3節                   中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 4節                   そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 5節                   婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 6節                   あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 7節                   人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 8節                   そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 9節                   そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 10節              それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 11節              使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 12節              しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。 人は一度死ぬと二度と戻って来ません。これは歴代の哲学者や宗教家が、死者への執着をやめようとしない、庶民の皆様に諭してきた事です。今日の聖書の箇所が書かれた時代の人たちも同じように考えていました。墓に向かう婦人たちは絶望していました。わずか数日前まで、イエス様が立ち上げて下さる「神の

2021年8月30日 礼拝説教 「神殿の垂れ幕が裂けた」

2021 年 8 月 30 日 礼拝説教 「神殿の垂れ幕が裂けた」 ルカによる福音書 23 章 44 ~ 56 節 44節           既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45節           太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46節           イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 47節           百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 48節           見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 49節           イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。 50節           さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 51節           同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 52節           この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、 53節           遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。 54節           その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。 55節           イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 56節           家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。 1949 年前の、紀元 70 年に姿を消したユダヤ人の神殿と、今も立っている日本の神社に不思議な共通点があります。エルサレムの陥落は弥生時代に起きたことですが、日本に逃れて来たユダヤ人が神社の設計に影響を与えたという説があります。確かな証拠がある訳ではありませんが、その共通点の一つは神社の拝殿と、その後ろにある本殿です。ユダヤ人の神殿には、拝殿に当たる聖所と、ご神体がある本殿に当たる至聖所がありました。 大祭司は一年に一回だけ、至聖所に入って

2021年8月24日 始業礼拝 「一緒に楽園にいる」

2021 年 8 月 24 日 始業礼拝 「一緒に楽園にいる」 ルカによる福音書 23 章 26 ~ 34 節 35節              民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36節              兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37節              言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38節              イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39節              十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40節              すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41節              我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42節              そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43節              するとイエスは、「はっきり言っておくが、 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 と言われた。 「この人と一緒なら死んでもかまわない」と思わせる人がいます。戦争に行って命を落としても、この上官と一緒なら死んでも悔いはないと思う兵隊もいます。イエス様の右と左の十字架に付けられた二人も覚悟ができていました。憧れの対象は愛国戦士のバラバで、十字架にかけられても、バラバと一緒なら名誉なことだと考えていました。 ナザレのイエスの噂も耳にしていましたが、ローマに対抗する意思のない、臆病者だと聞き、見かける前から軽蔑していました。ところが、バカバカしいことに、いざ死刑執行となると、どういう訳か、隣の十字架に付けられたのは憧れの対象のバラバではなく、無抵抗主義の預言者、ナザレのイエスでした。 バラバの釈放を求めて奔走した同志たちは、自分たちのことを気にも留めず、見捨てました。更に屈辱的なことに、死