2021年8月30日 礼拝説教 「神殿の垂れ幕が裂けた」

2021830日 礼拝説教

「神殿の垂れ幕が裂けた」

ルカによる福音書234456

44節          既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

45節          太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

46節          イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

47節          百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

48節          見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

49節          イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

50節          さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、

51節          同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。

52節          この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、

53節          遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。

54節          その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。

55節          イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、

56節          家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

1949年前の、紀元70年に姿を消したユダヤ人の神殿と、今も立っている日本の神社に不思議な共通点があります。エルサレムの陥落は弥生時代に起きたことですが、日本に逃れて来たユダヤ人が神社の設計に影響を与えたという説があります。確かな証拠がある訳ではありませんが、その共通点の一つは神社の拝殿と、その後ろにある本殿です。ユダヤ人の神殿には、拝殿に当たる聖所と、ご神体がある本殿に当たる至聖所がありました。

大祭司は一年に一回だけ、至聖所に入って務めを果たすことになっていましたが、その一回を除くと、至聖所は決して入ってはならない場所でした。祭司が日常的な務めを果たす聖所と至聖所の間に、分厚い垂れ幕がありました。この垂れ幕は神と人間の境目であり、聖なる神と罪ある人間が、直接交わることができないことを象徴するものでした。

ローマの支配下では、十字架の刑は珍しいものではありませんでした。しかし、福音書を書いた四人の著者は別々に、イエス様の死刑について、とても詳しい記録を残しました。この記録から、イエス様の死は、弟子や支持者たちにだけではなく、死刑を執行したローマ兵や見物人にまで、尋常とは言えない印象を与えたことがわかります。あまりにも尊いお方に対する、あってはならない、理不尽な出来事だったので、目撃者はその日を思い出すと、昼の十二時から午後の三時まで、全地が暗くなったと記憶するほどでした。刑の執行に慣れていたローマ兵も動揺し、罪のないお方を殺したと嘆く兵隊もいれば、ローマ皇帝を指して言う、神の子だったという兵隊もいました。

イエス様が死を迎えた瞬間、エルサレムの中心にある神殿にも異変があり、聖所に入った祭司たちは目を疑うほどのショックを受けました。至聖所の前にある、あの分厚い、侵してはならない神聖な垂れ幕が、真っ二つに裂けていました。祭司たちは天罰が下ったと思って恐れをなしましたが、後にこの事実を知ったイエス様の弟子たちは別な解釈をしました。イエス様の十字架は単なる悲劇ではなく、罪の償いとして、数えきれないほどの動物を生贄にして来た、ユダヤ教の終わりを意味する出来事だと考えました。

十字架にかけられたイエス様は「かたきを取ってくれ」と言わないで、「彼らを赦してください」と言いました。つまり、十字架にかけられたイエス様の死をもって復讐の連鎖が絶たれ、イエス様はご自分の苦しみと死をもって、すべての罪への償いを完成させました。人を神から隔てる神殿の垂れ幕が裂け、赦された罪人が妨げを受けることなく、神様に近づくことができるようになりました。

イエス様を処刑に追い込んだ体制側の人間でありながら、黙っていられない人たちもいました。初代の隠れキリシタンとも言える、高い地位にある二人、アリマタヤのヨセフと、夜中にこっそり、イエス様との面会を求めて来たニコデモでした。ローマ総督の許可を得、黙っていればハゲタカの餌食にされるイエス様の遺体を、岩を削って掘り出された墓に、丁重に葬りました。それを見届けたのはペトロを初めとする男たちではなく、イエス様の周囲にいた婦人たちでした。

どう考えても、ナザレのイエスについての物語はここでおしまいです。「万事休す」となり、ここからの続きはありません。しかし、ルカによる福音書は、今日読み終えた23章で終わる物語ではありません。聖書の面白いところは、ここからまだ続きがあることです。来週のテーマはその話です。

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