2021年8月24日 始業礼拝 「一緒に楽園にいる」

2021824日 始業礼拝

「一緒に楽園にいる」

ルカによる福音書232634

35節             民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

36節             兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、

37節             言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

38節             イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

39節             十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

40節             すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

41節             我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

42節             そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

43節             するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

「この人と一緒なら死んでもかまわない」と思わせる人がいます。戦争に行って命を落としても、この上官と一緒なら死んでも悔いはないと思う兵隊もいます。イエス様の右と左の十字架に付けられた二人も覚悟ができていました。憧れの対象は愛国戦士のバラバで、十字架にかけられても、バラバと一緒なら名誉なことだと考えていました。

ナザレのイエスの噂も耳にしていましたが、ローマに対抗する意思のない、臆病者だと聞き、見かける前から軽蔑していました。ところが、バカバカしいことに、いざ死刑執行となると、どういう訳か、隣の十字架に付けられたのは憧れの対象のバラバではなく、無抵抗主義の預言者、ナザレのイエスでした。

バラバの釈放を求めて奔走した同志たちは、自分たちのことを気にも留めず、見捨てました。更に屈辱的なことに、死刑囚の頭上に判決理由を書く札があり、彼らの愛国心をあざ笑うかのように、イエス様の頭上に「これはユダヤ人の王」と書いてありました。これを見た祭司長はピラトに「あまりではないか!」と抗議しましたが、その日の裁判でユダヤ人の圧力に屈し、むしゃくしゃしていたピラトは文面を変えようとしませんでした。

十字架にくぎ付けにされながら、「ユダヤ人の王」という称号をもらったイエス様は黙って、同胞であるユダヤ人の嘲りに耐えていました。隣の十字架に付いていた死刑囚の一人はついに我慢できなくなり、積もりに積もった怒りをイエス様にぶつけました。「メシアなら黙っていないで、何とかしろよ。自分をも私たちをも救ってみろ。」しかし、この情けない、絶望的な状況の中で、もう一人の死刑囚は違うことに気を留めていました。抵抗することも、脅すこともなく、「彼らをお赦しください」と祈り、静かに耐えるイエス様の姿に心を揺さぶられていました。

信じていたバラバの革命運動は失敗に終わり、ついて行った自分たちは仲間に捨てられ、愛国者として抱いていた夢は粉々にされました。しかし、死が間近に迫るなかでついに、約束されたメシアに相応しいお方に出会えたという気になっていました。共に死んで行く身でありながら、もう一人の死刑囚の心に奇跡が起こり、「私を信じる者は死んでも生きる」というイエス様の言葉が力を発揮しました。

死刑囚は遥か未来に目を向けて言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」二人の命はどう見ても、その日限りのものでした。現実を無視しているとしか言いようがない死刑囚の言葉は、イエス様に対する信仰告白でした。

復活は聖書の中心的な教えの一つです。聖書は「終わった」と諦める人に「終わりはではない」と言わせ、決定的な死の場面に出遭っても、「万事休す」と言わせません。死刑囚は十字架にくぎ付けられ、手足も出なくなったイエス様を通して、神の国が実現するという信仰が与えられました。残されたわずかな希望をこの方に託し、神の国が実現する時に自分を思い出して欲しいと願い出ました。

正しい生き方をする人たちが皆幸せになる、神の国が来るのは、ユダヤ民族の夢でした。しかし、いつ来るかは誰にもわかりませんでした。イエス様は遠い未来のことではなく、その日の内に実現する約束をし、「今日,わたしと一緒に楽園にいる。」と言いました。「楽園」はユダヤ人が信じる死の世界の一角で、善人の魂が行くところでした。しかし、「あなたは楽園に行く」と言ったのではなく、「わたしと一緒に楽園にいる」と言ったことに注目してください。

信仰は目には見えない世界を見えるようにしてくれる窓口で、目に見えないイエス様がそばにいると意識させるものです。「そんな気休めは信じない」と言って反発するかもしれませんが、東奥義塾の一日がいつも礼拝から始まるのはそのためです。

聖書やキリスト教の勉強をするのは聖書の時間で、礼拝の目的はそれとは違います。礼拝で聖書の言葉に耳を傾けるのは、耳を澄ませると神様の声が聞こえてくるからです。お祈りするのは、生きる時も死ぬ時もそばにいてくださる、イエス様の存在を意識できるようになるからです。心の葛藤や願いをすべて理解してくれる方が、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言っています。

卒業生によく贈られるのは聖書の次の言葉です。「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」苦痛と、屈辱と、絶望の極みにある、死刑囚に贈られたのはこの言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

二年続けて厳しい制限がかかる夏休みを過ごすことになりました。オリンピックが日本に来るというのに、インターハイに行けるというのに、甲子園を目指して戦えるというのに、期待していた華やかさのない、地味で寂しい環境の中での活躍となりました。ワクチン接種が終わるまで、もう少しの辛抱だと言われても、偉い人たちの言葉に説得力が感じられない毎日が続きました。コロナの災難だけでも十分なのに、今までの記録にない、大雨に襲われる地域もありました。

しかし、秋に備えてじっくりと力を蓄えることができた人たちもいました。どこにも行けない中、地道に勉強を重ねた生徒たちは間もなく、その効果を実感するようになります。冬が来るまでに、多くの三年生の進路が決まります。一、二年生は高校生活の中で、中身の最も濃い季節を迎えます。これからの四か月は、妨げるものが一番少ない、勉学に集中できる時期です。校内体育大会の二日間で、仲間との絆を確かめ合い、年末に向けて、エンジンを全開にしてください。二学期の上に神様の祝福と見守りがあることを祈ります。

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