2020年2月17日 礼拝説教 「一枚たりない」


2020217日礼拝説教
「一枚たりない」

ルカによる福音書158節 ~ 10

8節                  あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
9節                  そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
10節             言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
  
 高校生が一万円札を何枚も財布に入れて持ち歩くのは危険なことです。少なくとも、高価な買い物をしに学校に来る生徒はいないので、財布に入れるお金はせいぜい、数千円を限度にした方が良いと思います。

 しかし、仮に財布に一万円札が十枚入っていたとしましょう。気になるので一日に数回、その数を確認します。ある日、数えてみると九枚しかありません。「変だな」と思って数え直します。しかし、何回数えても同じです。一枚たりません。「これは大変だ」と、焦りの気持ちに襲われます。

ドラクメ銀貨。一般的にはドラクと言いますが、アレキサンドロス大王が地中海付近に広く普及させた貨幣のことです。現在のお金で言うと1万円くらいの価値がありましたが、今はコレクター向けのサイトで、数十万円の値段が付いて売りに出されています。

新約聖書時代のイスラエルでは婚約の証として、お婿さんになる人は婚約者に十枚のドラクメ銀貨をプレゼントしました。受け取った娘さんは、この銀貨を布のベールに縫い込み、出かける時は必ずかぶるようにしました。結婚相手が決まった、結婚の日を待っている女性としての身分を公にする意味がありました。

 十枚の銀貨に結納金の意味が含まれていたと思うと、一枚なくしたこの娘さんの狼狽ぶりはよく理解できると思います。婚約指輪をなくしたのに等しい焦りを感じたことでしょう。当時の家の屋内が暗かったので「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜しました。」

 見つかった時の喜び様は半端なものではありません。見つからない内は恥ずかしくて人には言えなくても、一度見つかったら有頂天になって皆に言いふらします。「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。」

 「まだ九枚あるから、一枚くらいはいいか。」とは思いませんでした。伴侶になる、一生に一度の誓いを立てる相手から、間違いなく十枚の銀貨をもらったのに、手元に九枚しかないなんて、この娘さんには耐えられないことでした。

 先週はこのことにあまり触れませんでしたが、見失った羊と、見失った銀貨の例え話の目的は一緒です。お決まりのパターンが再現していました。イエス様ご本人に文句の付け様がなかったので、批判勢力だったファリサイ派と律法学者はイエス様の取り巻きにクレームを付けました。心から受け入れ合っている印として、一緒に食事をしてまで迎えたのは「罪人」と言われる人たちでした。

 この人たちの罪は何だったでしょうか。警察から逮捕状が出るようなレベルの物ではなく、清く正しい人たちとの付き合いを困難にする程度のものでした。一般社会に受け入れられる、普通の生活ができない人たちがイエス様の傍に群がりました。現代の世の中に重ねて考えるなら、カミングアウトをしたLGBTの人たちや、外国人労働者や、普通の仕事に就けない、心の病を持っている人たちに囲まれたイエス様を想像して見てください。

 「九割の、主流派の人たちが良ければそれで良い。場の空気が読めない、友だちにする気になれない、少数派の人たちがいなくても良い。」人間はそのように思うかもしれませんが、これは神様の心ではありません。一人が欠けると必死に探します。「あなたはここにいてもらわないと困ります。」私たち一人一人に、神様がそのように語りかけています。

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