2024年9月2日 礼拝説教 「巨人の前に怯える人たち」

202492日 礼拝説教

「巨人の前に怯える人たち」

サムエル記上 171節、4節~11

1節                  ペリシテ人は戦いに備えて軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集結し、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を張った。

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4節                  ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、

5節                  頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、

6節                  足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。

7節                  槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。

8節                  ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。

9節                  その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」

10節             このペリシテ人は続けて言った。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」

11節             サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。

 「巨人」という言葉を聞くと何を連想しますか。皆様のご両親が子供の頃、プロ野球の「読売巨人軍」や、「オロナミンCは小さな巨人です」というテレビ・コマーシャルを連想したかもしれません。怖いイメージはなく、むしろ親しみを感じたと思いますが、十数年前から「進撃の巨人」というマンガが流行り、読者の間で恐ろしいイメージが定着しました。

 古代のイスラエル人は「巨人」を大の苦手にしていました。エジプトから上って約束の国に入ろうとした時、偵察に行った人たちは背がとても高い「巨人」を見たという報告をしました。これを聞いたイスラエル人は恐怖に襲われ、そのような場所には絶対に行きたくないと言って騒ぎ出しました。当時は、地中海の東側にある国はすべて、西にある海を渡って来た「海の民」に悩まされていました。鉄を使って武器を作る技術があり、中には「巨人」と呼ばれる、けた外れに背が高い人もいました。

 イスラエル人が住む山地の西側に、地中海沿岸の平野がありましたが、そこにも聖書が「ペリシテ人」と呼ぶ「海の民」が住んでいて、何度も、山地に住むイスラエル人の領土を責めて来ました。海の向こうから戦争の作法として持って来たのは、代表戦士による決戦という戦い方でした。両陣営から一人ずつ出して戦わせ、一方が勝てば全軍の勝利になるのがルールでした。ペリシテ軍が代表戦士として出したのは、身長が2メートル以上もある、金属の鎧に包まれたゴリアトという巨人でした。

 イスラエル人の中で、誰よりも身長があるサウル王なら勝負になったかもしれませんが、イスラエル人はこの大男にはかなわないと諦め、逃げ惑い、遠くから眺めました。冷静に考えると、相手は一人なので、対処する方法はあったでしょう。ゴリアトの挑戦を無視してイスラエル人が得意な戦法で応えることもできたでしょう。しかし、恐怖に怯えた彼らは思考停止状態に陥り、サウル王から一番若い一般兵に至るまで凍り付き、身動きも取れませんでした。

 古い聖書では「ゴリアト」は「ゴリアテ」になっていますが、これが有名な「ダビデとゴリアテ」物語の始まりです。次の王様になる指名を受けていたはずのダビデはこの頃、兄たちからも相手にされない、無名の羊飼いのままでした。もし、イスラエル軍の前にこのゴリアトという巨人が現れることがなかったなら、ダビデはいつまでたってもベツレヘムから出られなかったかもしれません。

 イスラエル人にとって、災い以外の何物にも思えないゴリアトは、それまでと違うダビデの新時代を導き入れるチャンスを作ってくれました。金縛りになっていたサウルの世代が待っていたのは新しいヒーローの登場でした。次回はお使いをさせられて戦場にやって来たダビデの反応を見ることになります。

 どの場所の、どの世代にも、人の心を支配して身動きを取らせない巨人のような存在があります。大人たちは何時間もかけて「ああでもない、こうでもない」と言って議論しますが、一向に埒が明きません。神様はそのような勇気も想像力もない古い世代を諦め、愛と勇気に満ちた無名の若者に目を向ける時が来ます。解決できそうもない問題を前にして右往左往する世界も、そのような若者の登場を待っています。「お前はどうか。」今ここにいる一人ひとりが自分に問いかけるべきなのはこの問いです。 

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