2024年2月19日 礼拝説教 「真の愛国者」

 2024219日 礼拝説教

「真の愛国者」

出エジプト記3231節~34

31節       モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。

32節       今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」

33節       主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。

34節       しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」

モーセの時代から千年以上たってからのことですが、イエス様は弟子たちに次のように言いました。「どんなことよりも、あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。」この世で生きている限り、良いこともあれば、悪いこともあります。しかし、人生の上がり下がりの中で変わらないのは、神様に愛されていることであり、その本の中に自分たちの名前が記されていることです。そこに自分の名前がある限り、何があっても大丈夫です。

聖書の中で、神様のこの本が最初に出て来るのは、今日読んだこの箇所です。モーセは自分の名前も、イスラエル人の名前も記されていることを知っていました。しかし、金の子牛を造り、それを拝んだイスラエル人の名前は今にも消されそうになっていました。「彼らの罪を赦してください」と必死に願うモーセは、自分の命よりも大事な物を差し出して言いました。「あなたの愛と救いを受けることができる人たちのリストから私の名前を消してください。その代わり、イスラエル人たちの名前を残してください。」

新約聖書を読むと、同じような事を言う人がいます。前にも紹介したパウロという人です。この人には人間として誇れる物がたくさんありました。しかし、イエス様の救いの恵を知ると、それまでの実績の数々をゴミほどの価値しかないと思うようになりました。そのパウロが気に留めていたのはモーセと同じように、イスラエル民族のことでした。いくら熱心にイエス様の救いについて伝えても、彼らはそれを受け入れようとはしませんでした。そこでパウロは言いました。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。イスラエル人のためなら、キリストから離され、神から見捨てられた者となっても良いとさえ思っています。」

この二人の姿に、真の愛国者の姿が見られます。国や母校を本当に愛する人は、国歌や校歌を大きい声で歌う人とは限りません。国や学校が強くなり、ライバルに打ち勝つのを喜ぶ人とも限りません。そのような感情はしばしば、自己中心的なエゴの延長線上にあるもので、あまり当てにはなりません。国や母校を本当に愛する人は、その良い所にも悪い所にも目を留めます。他者に負けない、強い存在になって欲しいと願う前に、人に愛され、尊敬される存在になるように祈ります。更に、このことが実現するためなら、自分が犠牲になっても良いと考えます。

この時のモーセは、イスラエル人をエジプトから導き出す指示を受けた時と同じ人物に思えないほど、大きく成長しています。最初はできないと言って逃げようとしましたが、すべてのイスラエル人から頼りにされるほどの指導者になりました。ここまで来たモーセは、民族の罪を自分でかぶると言えるほど、大きな人物になっていました。

自分のことしか考えないで生きる人の人生の後味は悪く、満足度の薄い物です。矛盾しているように思えるかもしれませんが、最高の充実感を味わうのは、ひるむことなく重い荷物を持ち上げ、他の人の世話をする人生を引き受け、自分の存在より大事と思える物に出会う人です。「私の存在が消えても良いので、この人たちを救ってください。」そのように言えるようになるなら、モーセとパウロのレベルに達したと言えるかもしれません。多くの人に仕える、実りの多い人生を選んでください。それこそ、東奥義塾で学んだ人間にふさわしい生き方です。

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