2024年1月15日 礼拝説教 「律法を超えた掟」

 2024115日 礼拝説教

「律法を超えた掟」

出エジプト記201節、17

1節           神はこれらすべての言葉を告げられた。

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17節       (十番)隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

新約聖書の約四分の一を書いたパウロという人がいます。ユダヤ教の一番厳しい流派に属し、律法の細かい部分まで徹底的に守る訓練を受けて育ちました。とてもまじめな人だったので、中年になってから「律法に関してはファリサイ派の一員。律法の義については非の打ちどころのない者でした。」と言っています。皆さんの中にもこのような人がいるかもしれません。「先生や、先輩や、親の言うことに背いたことがない。規則もルールも全部守った。嘘をついたこともない。卑怯なこともしていない。聖書にすべての人が罪人だと書いてあるが、自分には当てはまる気がしない。」

しかし、他人から見ても、模範的なユダヤ教徒だったパウロも、ある一つの掟に悩まされました。それは今日読んだ、「隣人のものを一切欲してはならない」という、この最後の戒めでした。一番から九番までの掟は、人の評価を受けられるものばかりで、仕方なく、いやいやながら守っていても、破ったという事実さえなければ、自分は潔癖だと主張できます。しかし、十番目の掟に限って、守っているかどうかがはっきり分かるのは自分だけで、裁きの対象になるのは目に見える行動ではなく、自分の心です。

「欲しいと思っただけで罪になるだろうか。少し厳し過ぎないか。」そう思う人も多いでしょう。パウロはローマの信徒への手紙で、この十番目の掟との葛藤について書いています。「意識していない内は気にならないが、思ってもいけないと知った途端に、強い欲望が湧いて来る。抑えようと思って苦行までするが、最後は逆効果になり、欲してはならない物が欲しいという思いが、ますます強くなる。」ここでパウロはあることに気付きます。「掟を真面目に守ろうと思っている自分の中に、別な力が働いている。」パウロはそれを「罪の力」として意識します。

旧約聖書の前半の中心的な教えは、「神様が与えたルールを守れ。このルールさえ守れば幸せになる。」という言葉でまとめることができます。しかし、後半に進むと、そのテーマに少しずつ変化が見られます。イスラエル人は幸せをもたらすはずだった律法を、どうしても守ることができません。しかも、それは反抗的で、いい加減な人に限ったことではなく、品行方正と思われる、真面目な人についても言えます。

律法を守ろうとしながら、いろいろなことで苦労するイスラエル人の本音が書かれているのは聖書のど真ん中にある詩編です。130番目の詩編を書いた人は次のように言っています。「ヤハウェよ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、ヤハウェよ、誰が耐ええましょう。」新約聖書に入ると、パウロは絶望したかのように言います。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

律法は正しい生き方を示すものですが、それにはもう一つの役目があります。つまり、人に心の中にある罪を意識させ、神様の前に心を低くし、その赦しを願う心境へと導くことです。しかし、詩編の作者は絶望的な思いに留まることなく、次のように言っています。「赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」パウロはもっとストレートに言います。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします・・・肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。」

今日はこども讃美歌から取った、讃美歌2160番の歌詞を読んで終わります。「どんなに小さな小鳥でも、神様は育ててくださる」ってイエス様のおことば。「名前も知らない野の花も、神様は咲かせてくださる」ってイエス様のおことば。「良い子になれない私でも、神様は愛してくださる」ってイエス様のおことば。

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