2024年1月29日 礼拝説教 「思い直す神」

 2024129日 礼拝説教

「思い直す神」

出エジプト記327節~16

7節           主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、

8節           早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」

9節           主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。

10節       今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

11節       モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。

12節       どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。

13節       どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」

14節       主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

15節       モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。

16節       その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。

新約聖書の神様は好きだけど、旧約聖書の神様は嫌いだという人もいます。禁じられた木の実を食べただけでエデンの園から人間を追放し、悪い事ばかりするその子孫を洪水で滅ぼすのは旧約聖書の神様。命を捨てるほどに人を愛し、罪を赦すのは新約聖書の神様。このような分け方をする人もいますが、金の子牛を拝むイスラエル人を滅ぼそうとするこの場面を読むと、怖くて恐ろしい旧約聖書の神様が顔をのぞかせます。

絶対に変わることのないお方だという考えに矛盾しているかもしれませんが、天地創造の神様は、人間への対応に四苦八苦しながら少しずつ変化して行きます。優れた知性の他に、従うかどうかを選ぶ自由を与えることによって、神様は人間という手に負えない、厄介な存在を作ります。しかし、自然界の中で、まともに会話できるのは人間だけで、神様にとって手放せない存在だったことも分かります。ひどく困った存在である人間にこだわり続け、愛情を注ぐのを止めません。旧約聖書の神様は次第に成長するかのように変化し、新約聖書に登場するイエス様の存在に繋がって行くのが見えます。

イスラエル人と神様の間に立たされ、大変な思いをしたのはモーセでした。これまで、イスラエル人が困らせてきたのは神様というよりは、目の前にいるモーセでした。困ったことがあると、協力して乗り切ろうとすることなく、皮肉たっぷりな言葉で容赦なく、モーセに不満をぶつけました。神様にその事を訴えて奇跡的な恵みを受け、何度も助けてもらったのはモーセでした。

しかし、ここに来ると立場が逆転します。イスラエル人に対して激しい怒りを表すのは神様で、子供の命乞いをする母親のように赦しを求めるのはモーセの方です。子供や、生徒や、部下を持ったことのないと、理解しにくいことかもしれませんが、人を預けられ、責任を持たされるのは、楽なことではありません。

今はほとんどなくなりましたが、以前の東奥義塾の生徒で、相当に重い過ち、又は軽い過ちでも何度も繰り返したため、学校に残しても良いかという会議が度々開かれました。その場で「退学以外は考えられない」と主張する意見に対して、学級担任や関わりのある教員が生徒を必死に擁護し、「しっかりと指導しますので、もう一度チャンスを与えてください。」と訴える姿を何度も見ました。それを聞いて「甘過ぎる」と思うこともあれば、心を動かされて納得することもありました。

神様は結局、モーセの訴えを受け入れ、イスラエル人を滅ぼすことを考え直しました。新約聖書に入ると同じような場面があります。一番有名なのは、十字架に釘付けられたイエス様が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈る場面でしょう。数年後にパウロは手紙の中で次のように書きます。「だれがわたしたちを責めることができるでしょうか。復活したイエスが、神の右に座ってわたしたちをいつも弁護してくださいます。」

 イスラエル人をかばったモーセのように、私たちをかばってくださる方がいます。その方のお陰で、思い直してくださる神様から、今一度チャンスをもらった人間として、謙虚な思いでこの一日を過ごしたいと思います。

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