2020年5月25日 礼拝説教 「とても大事な小さなこと」


2020525日 礼拝説教
「とても大事な小さなこと」

ルカによる福音書161014

10節             ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
11節             だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
12節             また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
13節             どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
14節             金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

「カンニング」は何点も変わる訳でもないのに、少しばかり自分を良く見せようとする校則違反ですが、発覚すると、とても重大な事として扱われます。「カンニング」という言葉は和製英語です。英語の「cunning」は、日本語の「狡猾」、または「ずるい」に近い意味がありますが、日本で「カンニングをした」と言えば、テストや試験で不正行為をしたことになります。

 見つからなければ誰にも迷惑をかけない、小さな罪だと思うかもしれませんが、会社の人事部長は学校時代に成績をごまかした人を採用しようとは思いません。内容によりますが、警察沙汰の方がマシだと思われる場合もあります。カンニングの事実をクラスメートに知られることが多いので、いつまでたっても「カンニングをした奴」というレッテルを張られる事があります。

この小さな行為が何故、これほどまでに重く見られるのでしょうか。答案を採点する教員と、成績通知表を受け取る両親を欺くのはもちろんのことですが、最終的に騙されるのは不正行為をした本人だからです。正直に零点を取るのは一時の恥かもしれませんが、自分の力のなさと正直に向き合うなら、決して恥かしいことではありません。反省と努力さえあれば、いくらでも挽回できます。カンニングは生徒からその機会を奪います。

本当に恥ずかしいのは、自分の真の姿に向き合おうとせず、嘘の自分を演じて生きる事です。ごまかしを土台にした人生は周囲の人を失望させるだけでなく、心の底から誇りを持てない自分をも不幸にします。学力に合わない学校に進んだり、能力に合わない仕事に就いたりした人は、情けないとしか言いようのない辛い思いを体験します。不正がからむ成績や仲介があったらなおさらのことです。真実は強力なバネのようなもので、曲げようとすると勢い良くはね返って来ます。

「小事に忠実な者は大事にも忠実である。」この格言は一般社会でもよく耳にしますが、聖書にあるイエス様の言葉だと知らない人が多いと思います。小事とは何でしょうか。すぐに思いつくのは時間厳守と整理整頓です。世の中に二、三分遅刻しても平気な人や、机の上、ロッカーや部屋の中が散らかっていても、不便なく生活できる人はたくさんいます。ただ、著名な芸術家や天才発明家でもない限り、社会がこのような人に大きな仕事を任せる事は稀です。仮に性格が良く、才能があっても責任ある立場に違う人が選ばれます。

イエス様はお金を低レベルのものとして考え、「不正の富」と呼びました。お金が小事なら、大事は永遠に変わらない物です。しかし、イエス様はお金の管理にいい加減な人を弟子にするつもりはありませんでした。むしろ、お金のような次元の低いものを管理できない人に、神の国の仕事を任せる訳には行かないと考えました。

お金を使わないで社会生活を送ることはできません。しかし、イエス様は「神と富とに仕えることはできない。」と言いました。「富に仕えること」は目の前にいる生身の人間を気に留めることなく、金もうけに夢中になることです。これは「神に仕えること」の邪魔になると、イエス様は警告しています。「神に仕えること」は純真な思いで、人の幸せを願う働きに従事することを意味します。そのような行為は目立たず、小さな事と思われがちですが、すべての大きな事の発生源になることを心に留めましょう。

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