2021年9月13日 礼拝説教 「耶蘇基督、同行」

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「耶基督同行」

ルカによる福音書241324

13節             ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

14節             この一切の出来事について話し合っていた。

15節             話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

16節             しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

17節             イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

18節             その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

19節             イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

20節             それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

21節             わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

22節             ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

23節             遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24節             仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

幻滅。外見的に見て世の中がどこも変わっていないのに、すべてが終わったと思う時があります。過去と現在の他に、人には未来という世界があります。将来のことが分からなくても、だいたいはこうなるだろうというイメージがあり、それを拠り所に生きています。そのため、両親の離婚とか、失恋とか、受験の失敗が大きな試練になります。将来まで続くと信じていた世界が突然、消えたかのように思うからです。今日の聖書の箇所に登場するお二人の気持ちは正にそうでした。ナザレのイエスの下で新しい世界が今にも始まると期待を膨らませていた矢先、その夢を実現させるはずのイエス様が、殺されてしまいました。

今から11年前、21年間勤めて定年までいると思っていた職場を退職しました。働き盛りの48歳でしたが、私生活においても、社会人としても、八方ふさがり感に耐えられなくなり、知り合いが一人もいない中華人民共和国に飛び込み、人生の再スタートに挑戦しました。3ヶ月の語学研修をした北京で迎えた最初の日曜日、礼拝を守りたいと思って教会を探しました。歩いて行ける範囲に中国の秋葉原と言われる中関村があり、そこに海淀堂という大きい教会がありました。

行列ができる教会の話は聞いたことがありましたが、それを目の当たりにしたのはその日が初めてでした。1時間半ごとに礼拝が行われ、満席になると扉が閉まり、次の礼拝を待たなければなかったので、教会の入り口付近に大勢の人がいました。列の後ろに並んで教会堂に入りましたが、聖書箇所は今日お読みした「エマオへの道」の話でした。覚えかけの中国語を駆使して牧師の話を聞き取ろうとしました。ほとんどわかりませんでしたが、ところどころ、授業で学んだ表現がそのまま聞こえて来ました。ある言葉が繰り返し、耳に響きました。「他认识、不、耶基督同行。」

何度か聞いている内にその意味がわかりました。「彼らはイエスだと気が付かなかった。しかし、イエスは一緒に歩いた。」私に理解できた範囲で言うと、牧師は次の事を伝えようとしていました。「失望した時は上を見上げて神様を信じなさいと言われますが、絶望と疲れの余り、それができない時もある。そのような時に、イエス様ご自身が近づき、一緒に歩いてくださる。」

心細い思いをしながら中国での生活を初めようとする自分にとって意義深い言葉でした。何もかも勝手が違う国にいて言葉も通じないと、簡単な用事を済ますにも、とても神経を使います。しかし、その都度、毎回違う人でしたが、近づいて一緒に歩いてくれる人がいました。三か月後に北京を離れましたが、あの牧師が繰り返していた中国語が頭から離れませんでした。「基督、同行。」結果的に、あの偉大な文化を生み出した巨大な国、中国に一人でいながら、今の自分にとって欠かせない三年間を送らせていただきました。

 エルサレムからエマオまでの距離は約10キロに当たる60スタディオンでした。つまり、東奥義塾から弘前公園くらいまでの距離で、歩くと23時間かかります。二人は一緒に歩いているのがイエス様だと気づかないまま、語り始めるイエス様の言葉に耳を傾けました。次回は、この話の後半をお読みします。死んだはずの方が一緒に歩いているので、きっと不思議なことが起きることでしょう。

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