2018年2月7日 礼拝説教 「種が良くても育つとは限らない」

201827日礼拝説教
「種が良くても育つとは限らない」

ルカによる福音書84節~8

4節                  大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
5節                  「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
6節                  ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
7節                  ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8節                  また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

十代の頃、音楽とか、本とか、映画で強烈な感動を覚えることがありました。人は文学や芸術作品との運命的な出合いを通して、生きる力を得たり、人生観を学んだりするので、それはそれで貴重な体験だったと思います。しかし、家族や友人に同じ思いを共有して欲しいと思って紹介すると、期待通りの反応が得られず、がっかりすることが多かったです。「この素晴らしい作品に触れても、感動できないこの人の心はどうなっているのだろう。」と思うことがよくありました。

今、思えばその逆のこともありました。熱心にレコードや本を勧めて貸してくれる友人がいました。レコードは適当に流して「良かった」と言って返せばそれで済みますが、本を一冊読むのにそれなりの時間と労力が求められます。「この本のどこが凄いのだろう」と思いながら時間を奪われて損した気分になったこともありました。

今日はイエス様の「種蒔きの例え」を読んでいただきましたが、私が五年前まで住んでいた中国の江西省で同じような光景を見ました。緯度は台湾と同じくらいの場所だったので、農家の方々は年に二回お米の収穫をすることができました。夏に田植えする二作目は日本と同じように苗を育ててから、一株ずつ水田に植えてきれいな列を作りましたが、春の一作目は種を手に握って水田に蒔きました。

かなりおおざっぱな作業だったので、種が全部水田に落ちるとは限りませんでした。水田の外に落ちた種は仮に芽が出ても上手く育ちませんでした。今日の聖書の箇所に書いてあるように、鳥に発見されて食べられる種もありました。しかし、中国で食べに来たのは空を飛ぶ鳥というよりは、鶏でした。

いくら良い話でも、いくら正しいことでも、人間の心が複雑にできているので、素直に受け入れられるとは限りません。しばしば、その正反対のことが起こり、大多数の人たちが激しく抵抗することがあります。イエス様は自分の言葉を種に例え、周囲にいる人たちに言いました。

「反対する人が多いからと言って、伝えている言葉そのものが間違っているとは思ってはいけない。種そのものが良くても、育つかどうかは落ちた場所次第。福音の言葉が受け入れられるかも人の心次第。わかる人にはわかるが、わからない人にはわからないものだ。だから、聞く耳のある人がいると信じて、語り続けなさい。」

 仕事をさせると十回中、七回失敗するのに、数億円の年俸をもらう人がいると聞けば不思議に思うかもしれませんが、プロ野球の首位打者の成績を見たら、納得すると思います。どんなに優秀な打者でも、バッターボックスに立ってから塁に出る回数よりも、アウトになってベンチに戻る回数の方が圧倒的に多いです。

最終的に求められる物は結果かもしれませんが、途中経過の段階で、結果が出ないからといってすぐに諦めるのも間違いです。本当に大事なことなら、しばしば結果が悪くても、何よりも必要なのは、ねばり強い継続です。

「蒔いた種は刈り取る」という諺も聖書の言葉ですが、思いやりも、誠意も、優しさも土に蒔く種のような物です。すぐに伝わる相手もいれば、偽りのない純心な気持ちを冷たく跳ね返えす相手もいます。しかし、良い種を蒔き続けるなら、いずれは人の心が温まり、いずれはどこかから良い結果が得られます。諦めずに、良い種を蒔き続けましょう。

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