2024年1月31日 3学年終業礼拝 「水の上を歩く信仰」
2024年1月31日 3学年終業礼拝
「水の上を歩く信仰」
マタイによる福音書14章26節~32節
「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」
個人的に言うと、イエス様の奇跡物語の中で、一番引っかかるのはこの話です。イエス様は奇跡を行う力を、病人を癒したり、死人を蘇らせたり、お腹を空かせた人にパンを与えたりするために使いました。お金儲けをしたり、敵を倒したり、人の注目を集めたりするためには使いませんでした。公の活動を始める前のイエス様に、不思議な力があることに気付いた悪魔は、色々な手を使って、その力を悪用させようとしました。
その内の一つは、「高い建物から飛び降りて注目を集め、一瞬の内にスターになれ」という唆しでした。イエス様は与えられた力を、意味のない子供じみたショーのネタにするつもりはなく、きっぱりと断りました。神様から与えられた力を見せびらかすことなく大事にし、その使い方に慎重な姿勢を貫き通しました。
そのようなイエス様がここで何故、水の上を歩くようなことをして、弟子のペトロにも同じことをさせたのでしょうか。弟子たちをびっくりさせる目的のイタズラだったのでしょうか。この奇跡に一体、何の意味があったのでしょうか。私はこう思います。その時のイエス様は、弟子たちにわからない大事な事を知っていました。彼らと過ごせる時間は後わずかで、自分がいなくなってから、弟子たちがとても困難な目に合う事になっていました。
この場面を見たのは弟子たちだけで、他には誰もいませんでした。それから、一見は絶望するしかいないと思えるような現実に向き合うことになる彼らに、イエス様が教えておかなければならない、大切なことがありました。湖の水面に足を置く人が沈まないで歩けるはずはありません。強い風にあおられた高い波に襲われたらなおさらのことです。この時のイエス様は弟子たちに、それから襲う困難に立ち向う信仰を学ばせようとしました。
「信じる」という行為には少なくても三種類あります。まずは、間違いないと確信するまで調べて尽くした上で信じる行為です。色々な人に尋ねたが皆、同じことを言っている。本にもそう書いてある。事実だと裏付けるデータも揃っている。このようにして、頭で納得して信じることができますが、これは聖書が言う信仰とは違います。科学的に証明された事実を認めることにも、安全対策が万全で事故の心配がないと思うことにも、聖書が言う信仰はいりません。
「信じる」行為のもう一種類は、根拠が薄いのに口で「信じる」と言い切ることです。「信じているからね!絶対、大丈夫だよ!きっと上手く行くから!」心の底から思っていないのに、口にすることによって自分の内にある不安を払拭させ、仲間に勇気を持たせようとします。時には裏切られる不安があるから、演技として「信じているよ!」と訴え、相手にプレッシャーをかけることがます。しかし、聖書が言う信仰は単なる強がりでもなく、根拠のないことを頭に叩き込んで思い込ませることでもありません。
三種類目の「信じる」行為は、聖書が教える信仰から来るもので、「真実として受け入れた事を前提に生きる事」を意味します。聖書は「お金持ちになると幸せになれる」と思い込ませようとする世間の圧力に対抗して、お金を追い求めても幸せになれないと教えます。高いステータスを目指すことが大事だと教える世間に対抗して「すべての人に仕える者になりなさい」と教えます。「人生は短いから人のことを気にせず、思う存分に楽しめ」と言うメッセージを送る世間に対抗して「自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従うように」と教えます。「死んだらおしまいだ」と、諦めさせようとする世間に対抗して「信じる者は死んでも生きる」と教えます。
この場合、信仰があるかどうかは、頭の中で納得できるかにではなく、何を真実として受け入れ、何を前提にして生きるかで決まります。人が本当に信じていることは、口で何を言うかにではなく、どのように生きるかでわかります。信仰が必要になるのは、危険が多くて先が見えなくなり、夢も希望も失う時です。その評価は自分よりも、周囲にいる人たちの方が正確に下せることが多いと思います。
「信じたいのに信じられない」という人も少なくはありません。人に裏切られたショックから立ち直れない人もいれば、絶望に身を任せた方が楽だと思う人もいます。二度と傷つきたくないと感じるのは自然なことで、成功する確率が低いのに、挑戦する気力を奮い立たせるのを大儀なことです。冷めている方が恰好良いと決め、そのことに一種のプライドを抱き、熱い思いに燃える人を秘かに見下す人もいます。しかし、確かに言えるのは、このような考えを持ち続ける人の人生も、日常生活も、決して良い方向に進まないということです。
どれほど無難な道を選んだつもりでも、人生は楽な時と辛い時の繰り返しになります。揺らぐことのない陸地に立ち、晴れの日が続いたかと思えば、海に沈みそうな小舟に乗ったまま、嵐の日もやって来ます。信仰は心の中で一日ずつ、晴れた日に養って行く物ですが、その信仰が本物かが問われるのは嵐の日です。
晴れの日に信仰を育てた人であれば、嵐の日にイエス様の言葉が心に響きます。「安心しなさい。この場所までついて来たのは私だ。恐れることはない。」目の前に深い海が広がり、渡る場所がないように見えても「来なさい!」という言葉が聞こえて来ます。更に、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけて「助けてください!」と叫ぶ事があれば、イエス様の手が伸びて来て「なぜ疑ったのか?」という言葉が耳に届きます。
高等学校という港から出航する船の準備が整いました。これまで信じたことを前提に、高い波を突き破り、大胆に生きる勇気が与えられるように祈ります。それぞれの船に乗ってこぎ出そうとする一人ひとりの上に、神様の祝福がありますように祈ります。心を込めて言わせてください。「卒業、おめでとうございます!」
Comments
Post a Comment