2021年4月9日 始業式 「サタンが入った時」

202149日 始業式

「サタンが入った時」

ルカによる福音書2216

1節                  さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。

2節                  祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。

3節                  しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。

4節                  ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。

5節                  彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。

6節                  ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

どの宗教にも、開祖様の生き方を理想とする傾向がありますが、キリスト教にはそれが特に強く、ナザレのイエスを見ると、人間のあるべき姿だけではなく、神様についてもすべてわかると教えています。時間をかけて聖書を読むと、天地創造やノアの箱船など、いくつもの面白い話がありますが、私は週に一回の礼拝当番で、イエス様の生涯を取り上げるルカによる福音書に限ってお話するようにしているのはそのためです。

どの時代にも宗教の悪用がありました。しかし、理想とする開祖様がいると、信徒たちはいずれ、その本来の姿に戻ろうとします。一例をあげると、17世紀から19世紀にかけて、西アフリカから新大陸に12百万人以上の奴隷を運搬したのはヨーロッパのキリスト教国でした。しかし、19世紀の初めに起きた奴隷制度廃止の先頭に立ったのは教会の指導者たちで、奴隷船を取り締り、奴隷貿易を終わらせたのはイギリス海軍でした。

3月にイエス様の公の生涯を取り上げる21章までの記事を読み終えたので、今日から、イエス様の弟子、ユダの裏切りから始まる受難物語に入りました。舞台は紀元30年頃のエルサレム。季節は春分の日が過ぎたあたり。ユダヤ人の最大のお祭り、過越祭の真最中でした。イエス様はガリラヤ地方から来た巡礼者の先頭に立ち、祭司長たちの収入源になっていた神殿商売を止めさせました。怒り心頭になった祭司長たちはすぐに逮捕しようと思いましたが、巡礼者たちが暴動を起こすのを恐れ、手を出すことはできませんでした。

抵抗に合わない形で逮捕する方法は、巡礼者たちが神殿付近を離れる夜間でした。しかし、密告者がいない限り、真っ暗闇の中でイエス様の居場所を突き止めるのは困難を極めることでした。過越祭が終わるまで待とうと覚悟を決めていたところ、祭司長の前に突然、ナザレのイエスの側近、イスカリオテのユダが姿を現しました。

「イスカリオテ」という呼び名の意味は不明です。ユダヤ地方に「ケリオテ」という町があったので、最近までは「ケリオテの出身者」という解釈が一般的でしたが、もう一つの興味深い説があるので、今日はそれを根拠に推理を立てて行きたいと思います。「イスカリオテ」を「シカリ派に属する」と解釈することができます。残虐につぶされましたが、紀元70年のローマ帝国への謀反を指揮したのは武闘派の「熱心党」でした。その中で最も過激な派閥は「シカリ派」でした。この人たちは短刀を持ち歩き、ローマ軍に協力していると思うと、身分が高い同胞も容赦なく刺し殺しました。

イエス様の弟子の中に熱心党のシモンという人がいましたが、12弟子の名前が二人一組ずつに書いてあるマタイによる福音書を見ると、シモンとペアになっているのはイスカリオテのユダでした。イエス様の弟子になる前に、この二人は過激派の活動家だったでしょうか。暴力を否定するイエス様の弟子になった時に大きな心変わりをしたようです。武力集団のリーダーにはない、人の心を変える力を持つナザレのイエスに心を奪われました。

喜び叫ぶ群衆に迎えられ、エルサレムに入場するイエス様の姿に興奮した弟子たちの中にイスカリオテのユダもいました。今のこの時、約束された神の国が到来し、ローマ軍が追い出され、イエス様がユダヤ人の王になるとユダは信じて疑いませんでした。しかし、神殿の境内から商人を追い出したものの、ローマ軍に歯向かう気配もなく、ローマに税金を払うことについて聞かれたイエス様は、それを容認するかのような発言をし、熱心党のシンパを落胆させました。イエス様の様子を見て「これはダメだ」と気を落としました。

その時、心を更に揺さぶる情報がユダの耳に入りました。シカリ派のかつての仲間のバラバが捉えられ、過越祭の最中にローマ軍の手によって公開処刑されることになっていました。祭司長たちにとって、熱心党もシカリ派も迷惑な存在でしたが、ここでナザレのイエスを謀反の首謀者としてローマ軍に差し出し、祭司長たちがバラバを釈放するように手を回すという策が練られました。ただ、騒動が起きないように、人目につかない、夜の内にナザレのイエスの逮捕と裁判を済ませる必要があり、その居場所をつかむには、イエスの仲間の一人を取り組む必要がありました。シカリ派が狙いを付けたのは自分たちのかつての仲間、イスカリオテのユダでした。

ユダの変化を察知したのはイエス様だけでした。他の弟子たちは何も気が付きませんでした。「12弟子の中から裏切りが起きる。」と知らされた彼らは驚き、「私のことですか?」と聞き返しました。だれも「それはユダだろう。」と言いませんでした。筋金入りのユダが裏切るはずがないと思っていたのでしょう。マタイによると、ユダは自ら祭司長の所に行き、「引き渡せば、いくらくれますか。」と尋ね、最初から金目当てだったという印象を受けます。しかし、ルカとヨハネは「ユダの中にサタンが入った。」と表現し、単にお金の誘惑に負けたのではなく、もっと暗い、邪悪な力に心を奪われたと思わせる表現を使っています。

私たちの心は想像する以上に弱いものです。冷静になってから後悔することを言葉に出し、やってしまいます。嫌われたくないと思って合わせてはいけない人に合わせます。時間を有効に使おうと決心したはずなのに、いつの間にか一日を無駄に過ごします。始業式のこの日に決めたことを、どこまで続けられるか、自信を持てる人はとても少ないと思います。自分自身に対する裏切りから始まり、大事な人を裏切る可能性も常に心に秘めているのが人間です。裏切り者のユダは私たちと関係のない存在ではありません。

しかし、これから毎日、この場所に集まって心を静める大事な一時を過ごすことになります。心のリセットボタンを押し、気持ちの再起動をする機会にしてください。礼拝堂が静かになって黙祷する時、自分の心に問いかけてください。仲間にも自分に対しても正直で、嘘のない生き方をしているだろうか。人にされたら嫌がることを、人にしていないだろうか。自分を一番大事に思って心配してくれている人の気持ちに素直に応えているだろうか。持っている能力を無駄にすることなく、精一杯に自分の可能性を活かしているだろうか。

「ユダの中にサタンが入った。」という言葉が私たちに当てはまることなく、この場から毎日、神様の祝福を受けた東奥義塾生として授業に向かって行ける心を育てていただきたいです。2021年度は、程度の差があっても、必ずやって来る試練を克服して力を付け、より幸せな人間として次の年度を迎えられることを心から願います。 

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