2021年4月26日 礼拝説教 「新しい契約」

 

2021426日 礼拝説教

「新しい契約」

ルカによる福音書221723

17節             そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。

18節             言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

19節             それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

20節             食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

21節             しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。

22節             人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」

23節             そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

かつて、世界各地に宗教行事の一環として動物を殺す習慣がありました。現在はほとんどなくなりましたが、1911年まで中国の皇帝は毎年、牛を殺して天の神に奉げました。アイヌ民族のイヨマンテという、クマを殺す儀式も戦後まで続きました。イエス様の時代、エルサレムの神殿で毎日のように羊や牛が殺され、過越祭が始まると、まるで屠殺場のようになりました。神殿の境内で、巡礼者たちが持ち込んだ子羊が何千頭も殺され、その血が祭壇の上に流され、内臓が焼かれました。巡礼者たちは残った子羊の死骸を境内から持ち出し、その肉を焼いて食べました。これはエジプトから出た夜に殺した子羊と、家の入り口に塗った血を記念して行われる儀式でした。

ユダヤ人の過越の食事に決まった式文があります。神式の結婚式の三々九度を連想するかもしれませんが、ぶどう酒が入った杯から飲む場面が四つあります。イエス様と弟子たちは非常に貧しく、もてなしを受けた時を除くと、食事はとても質素なものでした。ぶどう酒が入った杯は一つしかなく、感謝をささげたイエス様は弟子たちに「互いに回して飲みなさい。」と指示しました。過越の食事にかかせない、子羊の肉も話題に上りません。手に入れる余裕がなかったのでしょうか。一回目の杯の感謝をささげるところまで、イエス様が式文通りに司会を進めているかに見えますが、それから弟子たちの意表を突く展開となります。

過越の子羊がなく、物足りないと思っていた弟子たちにイエス様はギョッとさせる事を言います。「今夜は子羊の肉はありません。それに代わってこのパンを分け合って食べなさい。今日は神殿に行って子羊の血を流すことができませんでした。それに代わってこのぶどう酒を飲みなさい。このパンは私の体、このぶどう酒は私の血です。子羊に代わって殺され、血を流すのはこの私です。ユダヤ教徒が神様と結んだ契約に代わる、わたしの血による新しい契約の始まりです。これでお別れです。わたしの記念としてこのようにしなさい。」

弟子たちはイエス様の真剣な表情に圧倒され、言われた通りにしましたが、何のことかサッパリわかりませんでした。後になって理解したのは、次の日の朝に執行されたイエス様の死刑が人類の罪を償うもので、動物を殺して罪の償いをする時代が終わったということでした。「わたしの記念としてこのようにしなさい。」と指示されたので、初代のキリスト教徒は集まる度にこの「最後の晩餐」の出来事を再現し、現在まで続いている「聖餐式」を行うようになりました。

この聖餐式は宗教改革以降、パンとぶどう酒がイエス様の本当の体と血に変わると解釈するカトリックと、単なる象徴として捉えるプロテスタントの間に論争が起こり、プロテスタント各派の間にも解釈の違いがありました。しかし、次のことについてキリスト教徒は皆、一致しています。

その一。聖餐式に加わってそのパンを食べ、ぶどう酒を飲むことによって参加者は自分の罪を認め、イエス様の十字架は自分のためだったと告白する。

その二。動物の血をいくら流しても罪が完全に償われることはないが、イエス様の一回切りの十字架は、全人類のすべての罪を償うのに十分である。

その三。イエス様は自分を含む、全人類の罪をすべて引き受けてくださったので、どんな罪人も、イエス様の赦しを受けている。つまり、人類はすべて神に赦されたので、人が人を罰することも、仕返しを正当化することも、もはやできなくなったということです。

教会の聖餐式を初めて見て「気味が悪い」と思ったり、「宗教臭い」と感じたり、抵抗感を覚える人もいると思います。しかし、その原点は今日お話した通りであり、キリスト教徒が何故、この奇妙とも言える儀式に強くこだわるかを、少しは理解していただけたかと思います。

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