2017年9月11日 礼拝説教 「新しい革袋」
2017年9月11日礼拝説教
「新しい革袋」
ルカによる福音書5章33節~39節
36節
そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
39節
また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
この当時、ぶどう酒は、ガラスの瓶ではなく、動物の皮でできた袋に入れて持ち歩きました。発酵過程がまだ終わっていない新しいぶどう酒を入れると、発酵が続くので袋が膨張しました。固くなった古い革袋なら破れてしまう危険性があったので、この場合は、伸び縮みする新しい皮袋を使いました。
私の両親の世代が子供の頃、衣類の多くは初めて洗濯すると縮みました。今はそうならないように加工されていますが、昔は何度も洗って縮み切った布に、洗濯したことのない新しい布を継ぎ当てて洗うと、新しい布だけが縮んで布が破れてしまいました。
イエス様は、ケチをつけに来た人たちをかわすためにこの例えを用いました。対立関係にあるファリサイ派の弟子たちも、イエス様と友好的な関係にあったヨハネの弟子たちも断食しました。なのに、イエス様の弟子たちは断食する様子もなく、毎日楽しそうに飲み食いしていました。うらやましかったのか、イエス様は何故なのかと問い詰められました。
ラマダンの季節になるとイスラム教徒が断食することはご存知だと思います。昼間は何も食べませんが、日が暮れると皆でご馳走を食べます。キリスト教にも断食の伝統がありますが、普通は一日から一週間程度、何も食べないで、祈りと瞑想に集中します。
最近は健康法として断食を勧める人たちもいますが、聖書に出てくる断食の目的は、目に見える体の欲求を断ち切って、目に見えない神様の世界に集中することです。何かのピンチに直面した時、または現状から脱出したいという熱い思いを抱いた時に断食して祈り、神様に心の思いが本気だということを激しく訴えます。
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは、自分たちの精神を研ぎ澄まし、当時の嘆かわしい現状を打破しようと思って断食しました。しかし、彼らはあることを見逃していました。イエス様の登場で、現状が既に変わっていました。政治体制が少しも変っていないのに、イエス様の周囲に、神の国が既に始まっていました。
救い主であるメシアが来るのを切望して断食する時代は終わっていました。メシアであるイエス様が目の前に現れ、その事を喜んで一緒に飲み食いするのが当たり前の時代がすでに始まっていました。しかし、時代が大きく変化すると、それにいち早く気が付いて順応する人もいれば、頑固なまでにそれを悟ろうとしないで博物館行きの化石になって行く人もいます。
津軽の藩校、稽古館が廃藩置県でつぶされて東奥義塾に生まれ変わろうとしていた頃、最後の藩主、津軽承昭、弘前の初代市長、菊池九郎などの人たちは英語の時代が始まったことを悟り、思い切って英語教育にシフトしました。それに反発したのは稽古館時代から教鞭をとっていた漢文の先生たちでした。稽古館という古い革袋に英語教育を入れるのは不可能でした。東奥義塾という新しい革袋に入れる必要がありました。
東奥義塾にも今、もう一度、新しいぶどう酒が入ろうとしています。今年度中に東奥義塾は全館Wi-Fiになります。次年度の新一年のCⅡコースと国際教養コースの生徒全員が一人一台、PCを持つ方向でこの計画が進んでいます。これが何を意味するのかをまだ十分に理解していない方々もいますが、正に、青森県の教育に革命が起きようとしています。
教科書と黒板とノート中心の20世紀型の教育とはおさらばです。21世紀に相応しい探求中心の授業が始まり、生徒が自ら情報を入手し自主的に学び、学んだことを世界に発信する教育がはじまります。
当然、古い革袋の生き方に徹し、消化不良を起こす方々もいるでしょう。しかし、国の内外問わず、社会を動かしている、この止められない流れに抵抗するならアッという間に絶滅危惧種になります。年齢問わずに新しいぶどう酒を吸収できる、新しい革袋になれるように、東奥義塾の関係者の応援を絶え間なく続けたいと思います。
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