2017年10月16日 礼拝説教 「貧しいのが幸せ?」

20171016日礼拝説教
「貧しいのが幸せ?」

ルカによる福音書612節~20

12節             そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
13節             朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
14節             それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、
15節             マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、
16節             ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
17節             イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18節             イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19節             群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
20節             さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。

 日本のような先進国に貧しい人はいないと言う人もいます。1980年代から、世界的に始まった社会主義の崩壊を招いた重要人物の一人として、イギリスのマーガレット・サッチャー元首相はとても有名です。多くの名言を残した方ですが、その内の一つを紹介します。

「現在のイギリスには経済的な要因による貧しさはない。あるのは人格の欠損による貧しさだけだ。」ひどい言葉だと言って非難する人も多かったですが、先進国にいながら貧しいのは不真面目な人、怠けた人、知恵がたりない人に限ると言いたかったようです。

貧困には様々な定義があります。食べる物も、着る物も、住む場所もないことを絶対的な貧困と言います。もう少し緩やかに解釈すると、学校や病院に行けないこと、清潔な水や電気の供給を受けられないことも貧困と言います。最近になって、ネット・アクセスがない状態も貧困の一種だと言う人もいます。

しかし、社会学者たちは貧困のもう一つの要素に注目しています。それは経済格差による貧困で、社会構造を研究する彼らの間に、次の考えがほぼ定着しています。「衣食住さえ満足にあれば、人間社会を不幸にするのは貧困ではなく、同じ地域に住みながら、持っている人と、持っていない人の間に生じる経済格差である。」

犯罪が少ないのか多いのか、心身ともに健康な人が多いのか少ないのか、住民が幸せだと感じるのか、感じないのか、など、社会の安定の最も正確な目安になるのは、富をうまく共有できているかどうかであり、この結論は国ごとに検証しても、地域ごとに検証しても、街ごとに検証しても有効であり、研究者たちが集めた膨大なデータに裏付けられています。

自動車を持っている人が周囲にいなかった時代、自動車がないことを苦に思う人はいませんでした。皆喜んで、自転車やバスを利用しました。ゲーム機のない時代に生まれた子供は、ないからと言って、不幸だとは思いませんでした。皆、外に出て木登りをしたり、昆虫を探しに行ったりして楽しんでいました。しかし、今の時代になって自動車がない家庭や、ゲーム機を持たせてもらえない子供は不便な思いをしたり、仲間外れにされたり、劣等感に悩んだりします。

文化大革命が終わり、改革開放路線が始まってから、たったの三十五年で、中国人の平均収入は五十倍以上も増えました。しかし、私が中国にいたころ、親しくしていたある夫婦が、口を揃えて言ってくれました。「文化大革命の頃、私たちは本当に貧しかった。でも、皆が同じ夢を持っていて、皆、同じように貧しかった。あの頃の私たちは幸せだった。」否定的な話の多く聞かれる、文革時代に対してこのような見方もあるのかと、印象に残りました。

「幸せなのは貧しい人たちだ。」イエス様は何を言わんとしていたでしょうか。この時代の人たちも皆同じように貧しくて、それで幸せだったのでしょうか。実はその真逆で、経済格差の厳しい時代でした。ローマ人とうまく手を結んで、贅沢な暮らしをしている人たちもいれば、日雇い労働をしながら、その日暮らしをしている人たちもいました。そればかりか、お金持ちは神様に認められた立派な人たちで、貧しい人たちは神様の掟を守れない、道徳的に劣った人たちだと思われ、蔑まれていました。

「貧しい人々は、幸いである。」このような時代だったからこそ、イエス様は開口一番、このように言い放ちました。「新しい時代が始まろうとしている。神の国はあなたがた貧しい人たちのものだ。あこがれの的となり、恵まれた立場に満足するお金持ちたちに幸せが来るのではない。だれよりも先に幸せを受けるのは、惨めに思われ、バカにされ、白い目で見られ、無視され、軽蔑されているあなたたち、貧しい人たちだ。」

イエス様の福音は、その時も今も、真っ先に貧しい人たち、仲間はずれにされた人たち、隅に置かれた人たちの心に光を灯します。私体の居場所にもこの光が差し込んでいます。

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