2017年12月6日 礼拝説教 「本当の権威の所在」
2017年12月6日礼拝説教
「本当の権威の所在」
ルカによる福音書7章1節~10節
1節
イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
2節
ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
3節
イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
4節
長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
5節
わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
6節
そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
7節
ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
8節
わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
9節
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
10節
使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
ローマ軍の力はその百人隊長にあると言われるほど、この階級の軍人たちの評判は高かったです。中間管理職に当たる位で、家柄や出身地とは関係なく、なれるのは勤務態度の優れた、真面目な軍人だけでした。新約聖書に登場する百人隊長は皆、良い人間として描かれています。しかし本来、イエス様のようなユダヤ教を解き明かすラビが、ローマ皇帝に忠誠を誓った軍人と接触を持つことはあり得なかったです。戒律を厳しく守るユダヤ人は通常、ローマ人の家に入ることを拒みました。入ったら体も心も汚れ、神様に近づくことができなくなると考えました。イエス様のようなラビであればなおさらのこと、百人隊長は会うのも難しいと思ったことでしょう。
出合いのきっかけは百人隊長が大事にしていた部下の病気でした。イエス様の癒しの業について聞いていたので、もしかしたら癒してもらえるかもしれないと思いました。カファルナウム村の長老たちは間に入って必至にお願いしました。「このお方はただのローマ人ではありません。ユダヤ人を愛し、礼拝のために使っている村の会堂の建設費を出してくれたお方です。お願いです。固いことを言わずに行ってあげて、部下の病気を癒してください。」
普通のラビなら断るところでしたが、ここはイエス様の違うところで、「行きましょう。」と言いました。百人隊長の家の近くまで来ましたが、その時、使いがやって来て主人の言葉を伝えました。「私はあなた様のようなお方をお迎えできるような人間ではありません。一言おっしゃっていただければ十分です。そうしていただければ、部下の病気は治ります。私も権威の下にいる人間なので、その事がよくわかります。」「権威がある人間」とは言いませんでした。自分もイエス様も「権威の下にいる人間」だから、その言葉に力があると言いました。何だか矛盾しているような気もしますが、少し考えて見ると、その意味がよく分かると思います。
自動車の運転手が警察官に「止まれ」と指示されたら止まるのは、警察官が怖いからでも、人格的に立派だからでもなく、警察官が警察署の権威の下にいる人間で、警察署は国家の権威の下にあり、究極的にその警察官のバックに日本国民の総意があるからです。権威の下にいるのをやめ、制服を脱いだ警察官はただの人です。危険運転を目撃して「俺は元警察官だ!」と叫んで車を止めようとしても、だれからも相手にされません。
大学を出たばかりで、年齢的にお兄さんやお姉さんとほとんど変わらない新任教員でも、生徒はその指示に従わなければならなりません。納得がいかないと思うかもしれませんが、理由は二つあります。第一に、教員と生徒の関係は、親子のような血縁関係ではなく、いつでも切れる契約上のものです。教員の指導に従わない生徒は、もはや生徒ではなく、赤の他人です。第二に、今日の聖書の箇所の言葉を借りて言うなら、新任教員は学年主任や教科主任の権威の下にあり、主任は塾長や教頭の権威の下にあり、塾長は理事会の権威の下にあり、理事会は文科省や裁判所の権威の下にあります。言葉に権威があるのはそのためで、怖いからでも、偉いからでもないのです。
イエス様の言葉を聞いた人たちは、その言葉に特別な権威があると感じました。病人を癒す力があったのは、おまじないを使ったり、呪文を唱えたりしたからではなく、天地の作り主である神様の言葉に忠実に従い、神様から権威ある言葉を授かっていたからです。このことに気が付いたのは同胞のユダヤ人ではなく、異教徒のローマ人であることにイエス様は感心しました。この学校で聖書を学ぶ私たちも、このお方の権威ある言葉に耳を傾けるようにしましょう。
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