2017年11月20日 礼拝説教 「あら捜しは愉快なもの?」
2017年11月20日礼拝説教
「あら捜しは愉快なもの?」
ルカによる福音書6章37節~42節
38節
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
39節
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
40節
弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
41節
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
42節
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
はっきり言って、悪口を言い合うのは楽しいことです。「A君は立派だね。」とか、「Bさんには本当に頭が下がるね。」とか、そのような話をすると、場の雰囲気が今一つ盛り上がりません。下手すると、皆に褒められているA君とかBさんに比較されているような気になり、暗に「自分はその人に及ばない。」と言われているようなが気がして不愉快になる人もいます。
その一方、「A君のあの態度にはむかつく。」とか「Bさんと一緒にいると本当にイライラする。」とか、そのような話をすると、集まっている人たちが皆、楽しそうな顔をして話に乗ってきます。特に、付き合って行くのに困り果てて、他の人も同じように困っている事を耳にすると、急に気持ちが楽になり、このような話ができる仲間がいて幸せだなと思う事さえあります。不満の一致で結束力が増し、新しい友だちができることもあります。
しかし、悪口はあまり建設的なものではありません。ドライバー一本さえあれば、電気製品の解体は簡単です。しかし今度、組み立てようとすると別問題です。解体した時のようには行きません。壊すのは簡単です。難しいのは元に戻すことであり、ゼロからスタートして作ることです。
グループにいるだれかの問題行動に終止符を打って解決するためなら、やむを得ない場合もあるでしょう。しかし、行動がない愚痴を言い合って終わるなら進歩はありません。悪口の対象になった人の人格に傷をつけ、いじめのきっかけを作るのもしばしばです。自分の成長を止めてしまう危険性も大いにあります。悪口を言われている人がいる限り、その人よりも自分の方がましだという気になり、もっと良い人間になろうと努力するのを止めてしまいます。更に、悪口を言い合っている仲間同士でいくら盛り上がっても、はたから見て美しいものではありません。
これまで何度も話したように、イエス様の時代には、旧約聖書預言の約束通り、神の国がやって来て幸せな時代が始まるのを期待している人たちが多くいました。そのなかで幅を利かせていたのはファリサイ派でした。旧約聖書の律法に自分たちのルールを加え、国民がそれらを徹底的に守ると神の国が来ると信じていました。自分たちだけではなく、周囲にいる人たちにも守らせようと必死になっていました。「神の国がなかなか来ないのは、お前たちが神の律法をキチンと守らないからだ。」と主張し、やっとの思いで生計をたてている庶民を困らせ、意味もない罪悪感を植え付け、悩ませていました。
イエス様は「お前たちがやっている事こそ間違っている。目が不自由な人が他の人の目からゴミを取ろうとするようなものだ。人にはそれぞれ事情があり、それを理解しようとしない、無慈悲なあなたがたの方こそ目が眩んでいる。目の中に丸太が入っているようなものだ。そんな、目も見えないあなた方に、盲人の道案内ができるか。二人とも穴に落ちるではないか。」
すべての人の心に闇の部分があり、皆それを何とか取り繕ってまともな恰好で人の前に出ようとします。しかし、どんな人間でも時にはそれがバレて、必死に隠そうと努めてきた弱点が人の前に姿を現します。家庭背景が違いすぎるのか、育った経緯が辛すぎるのか、持っている能力が不揃いなのか、どうしても皆と行動を共にし、笑いながら話を合わせる事ができない人がいます。そのような人を知っていますか。おそらく、周囲に二、三人はいるでしょう。もしかしたら、自分ではないかと心配する人もいるかもしれません。そのような人を意識した時に、私たちの人格の真価が問われます。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
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