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2026年2月1日礼拝説教 「だれのための安息日」

  2026 年 2 月 1 日礼拝説教 「だれのための安息日」 マルコによる福音書 2 章 23 節~ 3 章 6 節 23節            ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24節            ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 25節            イエスは言われた。・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27節            「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28節            だから、人の子は安息日の主でもある。」 3 章 1節                イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2節                人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3節                イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4節   ...

2026年1月19日礼拝説教 「断食の時と婚礼の時」

  2026 年 1 月 19 日礼拝説教 「断食の時と婚礼の時」 マルコによる福音書 2 章 18 節~ 22 節 18節              ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19節              イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20節              しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 21節              だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。   22節              また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」   この当時、ぶどう酒は、ガラスの瓶ではなく、動物の皮でできた袋に入れて持ち歩きました。発酵が終わっていない、新しいぶどう酒を入れると、発酵過程が続くので、皮袋が膨張しました。固くなった古い革袋なら、破れてしまう危険性があったので、この場合は、伸び縮みしやすい、新しい皮袋を使いました。  私の両親の世代が子供の頃、衣類の多くは、...

2025年12月8日 礼拝説教 「罪人を招くイエス様」

  2025 年 12 月 8 日 礼拝説教 「罪人を招くイエス様」 マルコによる福音書 2 章 13 節~ 17 節 13節          イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 14節          そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 15節          イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 16節          ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 17節          イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  新約聖書には、二つの名前を持っている人が多くいます。ここに登場するレビもその一人です。レビは、マタイによる福音書を書いたマタイだと言われています。レビのイエス様との出会いは、これまでの人たちと同じように、当時の社会常識をひっくり返すものでした。 レビは、イスラエルという国を占領する、嫌われ者のローマ人に代わって、同国民から税を集めて私腹を肥やしている人でした。次のような推測ができます。レビにとってお金はとても大事なものでした。自らこのような仕事を選ぶ人は、イスラエル社会の底辺にいる外国人同様、一般市民に付き合ってもらえない人でした。職業に伴う恥を気にすることなく、村八分にされてもお金さえあれば満足...

2025年11月17日 礼拝説教 「今度はあなたが赦す番」

  2025 年 11 月 17 日 礼拝説教 「今度はあなたが赦す番」 マルコによる福音書 2 章 1 節~ 12 節 1節                   数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2節                   大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 3節                   四人の男が中風の人を運んで来た。 4節                   しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 5節                   イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 6節                   ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。   7節  ...

2025年11月10日 礼拝説教 「清くなれ」

  2025 年 11 月 10 日 礼拝説教 「清くなれ」 マルコによる福音書 1 章 40 節~ 45 節 40節          さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 41節          イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 42節          たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 43節          イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 44節          言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 45節          しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 イギリスのダイアナ妃が交通事故で亡くなってから二十八年になります。これは当時の皇太子、今のチャールズ国王との離婚と、エジプト人の大富豪の息子、 ドディ・アルファイド との関係がメディアで騒がれている最中のことだったので、世界中に大きな衝撃が走りました。イギリスの王室の最初の反応は冷たかったです。ダイアナ妃の死を悼む声明を発表したものの、王室を自分から出て行った人なので、国として特別なことをする必要がないというスタンスを取りました。しかし、当時のイギリスの首相、トニー・ブレアーは「あの方は庶民のお姫様 (T...

2025年10月27日 礼拝説教 「熱病のいやし」

  2025 年 10 月 27 日 礼拝説教 「熱病のいやし」 マルコによる福音書 1 章 29 節~ 39 節 29節        すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30節        シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31節        イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32節        夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33節        町中の人が、戸口に集まった。 34節        イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 35節        朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36節        シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37節        見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38節        イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39節          そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。  マラ...

2025年1月31日 3学年終業礼拝 「勇気を出しなさい」

  2025 年 1 月 31 日  3 学年終業礼拝 「勇気を出しなさい」 ヨハネによる福音書 16 章 33 節 「 あなた方には世で苦難がある。 しかし、勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている 。 」 キリスト教との出会いを聞かれたら、「入学して気が付いたら聖書を持たされ、讃美歌を歌わされていた」と答える卒業生が多いと思いますが、教会に通っている日本のクリスチャンの多くは、「休ませてあげよう」というイエス様の言葉に惹かれ、心の安らぎを求めて通い始めたと言います。昔も今も、生活に困っている人は、心を落ち着かせるイエス様の優しいメッセージに惹かれてついて行きます。しかし、対照的に、周囲を固めるコアのメンバー、つまり、世の中を変え、神の国を実現させようとする実働部隊に、イエス様は最初に上げた、覚悟を促す、厳しい言葉を与えました。 毎日のように礼拝堂への入退場を繰り返した卒業生の皆様は、聖書にある十字架と復活に特別な意味があることに気が付いたと思います。この二つはセットになっていて、片方だけでは成立しません。キリスト教では、十字架の苦しみのない復活がなければ(苦難がある)、復活の希望がない十字架もありません(既に世に勝っている)。心の安らぎを得るのが出発点であっても、イエス様を信じる人のそれからの人生は、十字架と復活の狭間に立って過ごすものであり、甘ったれた人間にはお勧めできません。 信仰の話をしなくても、十字架と復活の原則はいたる所に見られます。人生の最初の一日を考えてみてください。誰も、自分の誕生の瞬間を覚えていません。仮に覚えていたら、トラウマとして残りそうで、記憶にないのは幸せなことかもしれません。出産はお母さんにとって大変なのは何度も聞かされてきました。しかし、誕生の主人公のである私たちにも大きな苦労がありました。住み慣れたお母さんの暖かいお腹から、狭い産道を下って冷たい外界に押し出されました。幼い私たちにとって、何と恐ろしい体験だったことでしょう。 出産は子供の人生の最初の受難であり、最初の十字架です。新生児の意見を聞けるなら、いつまでもお母さんのお腹にいたいと言うでしょう。どのような意味があって、誕生という苦行に耐えなければならないでしょう。今の私たちから見ると、その答えは明白です。誕生の先に光があり、成長...