2025年11月17日 礼拝説教 「今度はあなたが赦す番」

 20251117日 礼拝説教

「今度はあなたが赦す番」

マルコによる福音書21節~12

1節                  数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、

2節                  大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、

3節                  四人の男が中風の人を運んで来た。

4節                  しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

5節                  イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

6節                  ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 

7節                  「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

8節                  イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

9節                  中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10節             人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

11節             「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

12節             その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。 

屋根の瓦をはがし、脳梗塞の後遺症を患っている人を床ごと、込み合った部屋に釣り下ろしたというこの話は、教会的に言うとかなりポピュラーなものです。この漫画チックな光景は子供の注意を引くのに効果的で、子供教会の定番にもなっています。しかし、この話がイエス様の物語の中で重要な位置を占めるようになったのは、ドラマ性が豊かだからではなく、イエス様がある言葉を口にしたからです。「人よ、あなたの罪は赦された。」

マルコによる福音書では初登場ですが、律法の教師たちがいました。この人たちの多くはファリサイ派に属し、これから何度もイエス様と対決するようになりますが、ここに居合わせたのは、無視できないほど人気が高まったイエス様にチェックを入れるためでした。「人よ、あなたの罪は赦された。」この言葉を聞いた彼らの頭の中に赤信号が灯りました。「ナザレのイエスの教えはやはり正統派とは違う。危険な思想の持ち主だ。マークする必要がある。」

脳梗塞の原因が解明され、医学の専門家ではなくても、おおまかな仕組みは理解できるようになりました。しかし、新約聖書時代の人たちは、突然やってくる脳梗塞による体の麻痺を、悪い事をした人に突然やってくる神様のバツだと考えました。人間ですから、皆、一つや二つは感心できないことをしています。イエス様の所に運ばれて来たこの人もそうでした。心を悩ませていたのは体が麻痺してしまったという事実よりも、罪を犯したため、突然、神様からこのような体にされてしまったというショックの方でした。 

これを見抜いたのはイエス様でした。この人を助けるために最も必要なのは、自分が罪に定められ、神様からの罰として体の自由を失った人間だという屈辱と絶望感からの解放を与えることでした。だから、イエス様はまずこの言葉をかけました。「人よ、あなたの罪は赦された。」その言葉を素直に受け入れたこの人は、心ばかりではなく、硬直していた体までが反応し、動けなかったはずなのに立ち上がり、歩いて家に帰りました。

「あなたの罪は赦された。」これはキリスト教に入信するすべての人に向けられる言葉です。礼拝の式文に入れている教会もあります。ありがたいと思う人もいれば、納得行かないと言う人もいます。この言葉を受け入れることは即ち、自分が神の赦しにすがらなければならない罪人であることを認めることを意味します。もっと困ったことに、罪が赦されるなら、自分の家族を殺した醜い奴らも赦されるかもしれません。罪の告白はクリスチャンになる条件の一つで、ちょっと滑稽な話かもしれませんが、クリスチャンにはなりたいが、告白する罪が思い当たらないのでどうしようと、悩む人もいます。

罪の赦しは可能でしょうか。中東の文化背景を持つ人たちは、「赦し」という概念に強く反発する傾向があります。神様が稀に罪を赦すことがあっても、人は赦せないし、現実問題として何があっても人は赦しません。先祖の恨みをも、親の恨みをも、自分の恨みをも死ぬまで背負い、機会を狙って敵を討とうとします。中東ばかりではありません。東洋の国を見ても、罪を犯した人が何年も前にこの世を去ったとしても、その罪を子孫に負わせ続けようとする国があります。

  以前勤めていた学校で、ホームルームの時間は教室に入れなくなり、学校の入り口付近でウロウロしている生徒がいました。理由は以前、所属していた部活の仲間が、自分についてコソコソ何かを言っているのに耐えられないということでした。色々と調べた結果、この生徒の主張の一部は当たっていましたが、被害妄想の部分もありました。それでも、加害者だと言われ、責められていた生徒は心配してくれて、教室に戻れるようになるなら、謝罪すると言ってくれたので、二人を合わせることになりました。

「これまで嫌な思いをさせてゴメンね。教室には戻って欲しい。」と、加害者ということになっていた生徒は言いました。教室に入れなくなっていた生徒は「謝罪は受け入れるが、絶対に赦しません。」と返事しました。私は「それじゃまずいよ。相手が謝ってくれた以上は赦してあげないと。そうでもしないと何も進まなくなるよ。」と諭そうとしましたが、「先生は私の気持ちが何もわかっていない。」と絶叫して取り乱し、その日は早退しました。謝罪した生徒はそれを見て大粒の涙を流していたので、「君の謝罪は立派だったよ。こんな思いをさせてゴメンね。」と私の方から謝ることになりました。結局は教室に戻ることになりましが、その後もしばらくは保護者を巻き込む、心に重くのしかかる状況が続きました。

赦すことは簡単なことではありません。人によって、恨む気持ちが自分の生き甲斐であるかのように絶対に放せないものになり、自分の心をも、相手の心をも固く縛り、いつまでも楽になることなく、いくら時間がたっても次の段階に進めなくなります。「あなたの罪は赦された。」という言葉の裏に、「これからは、あなたが赦す番だよ。」というメッセージが秘められています。自分を責めるモヤモヤした気持ちと、相手を責める苦々しい思いを捨て、爽やかな気持ちになって来週の定期試験を迎えられることを願います。

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