2026年9月14日 礼拝説教 「絶望の声と希望の声」
2026年9月14日礼拝説教
「絶望の声と希望の声」
マルコによる福音書5章35節~43節
35節
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
36節
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
37節
そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
38節
一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
39節
家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
40節
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
41節
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
42節
少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
43節 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
カペナウム村の会堂長、ヤイロは焦っていました。医者に診てもらっても、治療に効き目がなく、十二歳になる娘の容態は悪化するばかりでした。当時はあまり信用していませんでしたが、かつて、同じ村の人たちが大勢、ナザレのイエスに癒された話を思い出しました。そのイエス様が近くにいると聞き、藁を掴む思いで探しに行きましたが、湖の向こう岸に渡って、今はいないと知らされました。
二、三日が過ぎ、娘の命はもうダメだとあきらめかけていたその時、戻って来たよという知らせが耳に入りました。急いで探しに出かけ、イエス様を見かけると必死に頼み込み、娘が寝かされている自分の家に来てもらえることになりました。
ホッとしたのも束の間。イエス様は待ち構えていた群衆に囲まれ、進むのが遅いばかりか、「自分に触った人がいる」と言って大騒ぎになり、時間が更に過ぎて行きました。「早くしてくれないかな。娘の方が先だろう。」と思って焦るヤイロのもとに、とどめを刺す情報が届きました。「お嬢さんはお亡くなりになりました。この上、先生を煩わすことはありません。」もう来ても無駄だと言うのですが、イエス様の反応はいつもと変わることなく冷静でした。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘さんの命は助かる。」
そのまま、家に向かいましたが、情報が回るのが早く、先に着いたのは泣き女たちでした。日本では姿を消しましたが、中国を初めとする世界各地で、この風習は今も残っています。死者の家族や知人ではなく、お葬式を盛り上げるために雇われる、泣くのが商売の人たちです。ヤイロの家はウソ泣きのような甲高い声を上げて騒ぐ人たちにあふれかえっていました。「泣くな。死んでいるのではない。眠っているのだ。」叱るようにして、イエス様は集まったこの人たちを追い出しました。金目当てに泣きわめく声は、イエス様をバカにする、あざ笑う声に変わりました。
泣き声と笑い声に重なるように聞こえて来る「ダメだ。無駄だ。あきらめろ。」という言葉。対照的に「泣くな。死んでいるのではない。恐れることはない。」という言葉。聞く人の立場になって想像してみてください。どちらの方が受け入れやすいでしょうか。
「絶望するよりは希望を持ちたい。恐れ疑うよりは信じたい。」そう思うのはごく当前のことのように思うかもしれません。しかし、人の心は困難な状況に立たされた時、希望の方には向かうとは限りません。「もうダメだ。何をやっても無駄だ。」そう思い込むと、力む必要がなくなり、楽になると思うからです。
希望が叶わなかったり、信じても裏切られたり、努力しても報われなかったりするのが怖く、自ら絶望とあきらめに向かう誘惑に襲われます。しかし、人生のスタートラインに立つ皆様に、そのような気持ちになられては困ります。必要なのは立ち上がり、希望にしがみつき、信じることです。
「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。」その次に起きたのは、当時の社会でもあり得ないとされる、復活の奇跡でした。イエス様は知っていました。「この事が知れ渡ったら、自分がリーダーとして押し上げられ、革命騒動に発展する。」だからこそ、「誰にも言うな」という厳しい命令を出しました。
「タリタ、クム。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」自分とは関係のない、遠い、昔の話に聞こえるかもしれません。しかし、私たちも毎日のように、何かの形で、同じような呼びかけを受けています。朝になると起こし、弁当を持たせ、送り出してくれるお母さん。登校中に笑顔で「おはよう」と言ってくれる友だち。「起立、礼」という号令に続いて、その日の注意事項を伝えてくれる担任の先生。
毎日会う、この人たちは、イエス様と同じように、希望のメッセージを送り続けています。一人ひとりのそばに来て「娘よ、起きなさい。恐れることはない。ただ信じなさい。」と呼びかけています。寝ていた私たちが起き上がると、待っていましたと言わんばかりに、心から喜んでくれる人がいます。
今日こそ、起き上がる日です。心を閉ざすことなく、差し伸べられた手を取るべき日です。ヤイロの娘に負けない、復活の命を体験する一日を、共に迎えたいと思います。
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