2026年8月1日 礼拝説教 割礼と聖霊

 割礼と聖霊

使徒言行録1512

「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」

この当時、イエス様を信じたユダヤ人のほとんどには、ユダヤ教を離れたという意識がなく、それまでと同じようにユダヤ教の掟を守っていました。対照的にイエス様を信じた異邦人にはユダヤ教徒になったという意識がなく、キリスト者、またはクリスチャンと名乗りました。以前から、旧約聖書の神様を信じていた異邦人はたくさんいましたが、本格的なユダヤ教徒になる異邦人は少なかったです。改宗を阻んだのは、すべてのユダヤ人男性に課せられた割礼を受ける義務でした。

割礼はつまり、現代の医療機関でも頻繁に行われる「包茎手術」のことです。清潔を保つのが難しく、炎症を起こしやすいこの症状でお悩みの男性や、男の子を育てたことのあるご婦人ならピンと来ると思いますが、ユダヤ教徒の間では皆無に等しい問題です。すべての男の子が生まれてから八日目に割礼という名の下で、包茎手術を受けるからです。痛い思いをすると思いますが、生まれて間もない内に行うと手術も簡単で、傷口の治りも早いです。記憶に残らないのでトラウマもなく、清潔を保てる自分たちこそ、神に選ばれた清い民族だという誇りを持ちます。これは神様と特別な契約関係を結んだアブラハムに命じられた時から続いた伝統で、イスラム社会やアメリカ国内では現在も広く行われています。

対照的にギリシャ人は鍛えられた肉体を理想化し、割礼を野蛮な人体の損傷、神々から授かった身体への冒涜と考え、忌み嫌いました。ユダヤ教徒になろうとする異邦人は全身を水に沈める洗礼に似た儀式に預かりましたが、男性の場合は割礼の義務もありました。現代の医療技術がない時代に受ける成人男性の肉体的、且つ精神的な苦痛は並大抵のものではなく、旧約聖書の教えに強く賛同しても、よほどの覚悟がないと無理な話でした。

無割礼の男性を不潔と見なし、結婚の対象にしないのはもちろんのこと、一緒に食事することも拒むユダヤ人。対照的に、この血なまぐさい、下品な慣習に強い抵抗感を抱くギリシャ人。両者の間に埋め尽くせない、大きな溝があったのは十分に理解していただけると思います。この越え難い壁を爆発的に破壊したのはイエス様がお送りになった聖霊でした。聖霊は割礼の有無にも、豚肉を食べるか否かにもこだわることなく、イエス様を信じるすべての人の上に降りました。

ユダヤ人は旧約聖書の律法に誇りを抱いていましたが、ペテロが言ったように「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」だったのです。我慢しながら守っているユダヤ人も多く、大きな負担になっていました。対照的にイエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言って聖霊をお送りになりました。旧約聖書の預言、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る・・・わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」が実現しました。つまり、心から自然に湧いて来る思いから、神様が喜ぶ生活ができるようになりました。

 この有様を目の当たりにしたのは、ユダヤ人にも異邦人にも伝道したパウロでした。イエス様を信じる人たちに分け隔てなく注がれたのは聖霊でした。聖霊を受けた彼らは、ユダヤ人の掟を知らなくても自然体で、ユダヤ人以上に神様が喜ぶ生活を送るようになりました。パウロは確信しました。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ。」神の国に相応しい人間を育てるには、十字架と復活のイエス様への信仰と、それに続く聖霊の満たしで十分だ。

 パウロにとってこのように変えられた異邦人は目に入れても痛くない存在で、誇りの対照であり、生き甲斐その物でした。彼らこそ、神様が始めた新しい時代の先駆けであり、全世界に希望を与える存在でした。ところが、彼らを見て喜ばない人たちもいました。イエス様が嫌いな人たちならまだ良かったですが、同じクリスチャンの仲間でした。エルサレムの教会の代表者だと名乗って、パウロの伝道で始まった異邦人の教会に忍び込みました。

 「パウロさんからとても良い話を聞いたかと思いますが、あの人はキリスト教の初級のレベルまでしか教えていない人です。イエス様から直接教えをいただいたお弟子さんの一人ではなく、エルサレムの教会の会員でもありません。私たちはエルサレムにいるお弟子さんの話を毎日聞いて過ごしてきた、パウロよりも高度な教えを授ける資格がある者です。初級から上級に進みたいのであれば、私たちの話をよく聞いてください。信じた時に皆様はバプテスマを受けましたが、更にもう一つの儀式に預かる必要があります。それはつまり、割礼を受けることです。」大変な思いをしたと思いますが、その指示に従う異邦人もいました。

 イエス様の救いを味わって喜ぶ信者たちを残して次の街に移動していたパウロの耳にこの信じがたい話が伝わると、彼は怒り心頭になりました。律法を守ることによってではなく、イエス様の十字架と復活によって救いの道が開かれたというのに、そのようなバカな選択をするとは思えませんでした。ユダヤ教の掟を守り始めていたガラテヤの信徒たちにパウロは手紙を書き、生々しい表現を使って次のように怒りを露わにしました。

 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」

 「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたがを受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」

 「ガラテヤ人たちよ、バカじゃないの。エクセルで会計ができるようになったのに、電卓を叩いて縦横合わせないと会計じゃないと誰が信じ込ませたのか。機械を使ってスイスイと田植えができるようになったのに、誰が一株ずつ手作業で植えないと美味しいコメができないと教えたのか。」例えとしてあまり良くないのは承知していますが、ガラテヤの信者たちを説得するために、パウロには一つの力強い証拠に注目させました。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」

 ユダヤ教の一派として見られがちだったクリスチャンたちの中心的な特徴は十字架に付けられたイエスを救い主として信じていたことでした。しかし、彼らにはもう一つの際立った特徴がありました。それはイエス様を信じた人たちが聖霊を受けるという体験を共有していたことでした。異邦人への伝道が始まった時から、弟子たちはこの事実に着目しました。つまり、割礼を受けていない異邦人が「聖霊を受ける」という体験をしました。それを見て、彼らもキリストの仲間に加えられたと判断しました。律法を守ることによって加えられるという、それまでの常識が覆り、イエス様を信じるだけで十分だったのです。

 聖霊を受けた証拠として認められた現象の具体的な形について意見が分かれるところですが、はっきり言えるのは、目や耳で確かめることができる印だったことです。パウロはこの体験を、神の国を受け継ぐ保証だと説明しました。悪が支配していると思われる世の中にいても、心の中に聖霊がいることによって、神の支配の中に生きているという確信が持てると言いました。

 聖霊が降るのは自分の意思を失い、抵抗できない存在に支配されることを意味するのでしょうか。新約聖書の教えを読むと、それとはまったく違う実態が見えてきます。私たちは心の中で燃える聖霊の火を消すことができます。神様の意に反した行動を繰り返すことによって、聖霊を悲しませることができます。聖霊を受けた人には、心の中で働く聖霊の力を養う行動を取るか、罪に向かわせる欲の思いを養う行動を取るかを選ぶ自由があります。

 肉体がある人間として生きている以上、私たちの内側にある罪の力と、神様からいただいた聖霊の力の間に激しい葛藤が続きます。「心の中で白い犬と黒い犬がいつも喧嘩しているようなものだ」と言って表現した人もいます。「その喧嘩に勝つのはどちらですか」と聞かれたら、「私が餌を与える方です」と返事したそうです。「命をもたらす霊の法則は、罪と死の法則から私たちを解放」しますが、どちらに軍配を上げるかの裁量は、私たちの手に委ねられています。

 古い生活習慣から抜けきれない異邦人の信者が後戻りして罪に陥るのを見て悩むパウロの苦労は絶えませんでした。「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、もう一度あなたを産もうと苦しんでいます」言わせるほどでした。しかし、結論として、パウロは次のように言いました。「律法の規則に従うことに気を遣うのではなく、最初に信じた時に受けた聖霊に歩調を合わせて生活しなさい。そうすれば決して、神様を悲しませる行いに手を染めることはありません。聖霊に歩調を合わせる人には、果物の木に実がなるように、自然な形で次の特徴が見られるようになります。つまり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

 「パウロさん甘いよ。結果として罪を許すことになるだけだよ。律法をしっかりと教えないとダメだよ。」割礼推進派はこのように主張して、異邦人クリスチャンの喜びと、聖霊の働きに水を差そうとしました。しかし、キリストから始まって新しい時代に入ったと確信したパウロは譲ろうとしませんでした。「霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか・・・キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題でなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

 キリスト教の世界では割礼についての議論は回答済みで、遠い昔のことになりました。しかし、それに代わっていつまでも続くのは聖霊とどう向き合うかという課題です。信仰が与えられた時に受けた聖霊は心の中で思うがままに働き、私たちの内側から生きた水が川となって流れているでしょうか。それとも、パウロが警告したように、聖霊は悲しい思いをして心の隅に追いやられ、その力は消されているでしょうか。最後に、パウロがエフェソの信徒たちに送った言葉を読んで終わります。「聖霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心から誉め歌いなさい。」

主イエス様の恵が皆様と共にあるますように。

Comments

Popular posts from this blog

2021年4月9日 始業式 「サタンが入った時」

2026年5月1日 礼拝説教 「コリント伝道物語」

2021年4月19日 礼拝説教 「原点に戻る日」