2020年4月13日 礼拝説教 「放蕩息子のたとえ」


2020413日 礼拝説教
「放蕩息子のたとえ」

ルカによる福音書151132

11節          また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12節          弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13節          何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
14節          何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15節          それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16節          彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17節          そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
18節          ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19節          もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20節          そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21節          息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22節          しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23節          それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24節          この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25節          ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26節          そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27節          僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28節          兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29節          しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30節          ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
31節          すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32節          だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
イエス様の教え方の際立った特徴の一つは、たとえ話を用いたことです。三年生はおととしの十一月に「良きサマリア人」のたとえの話をしたのを覚えているかもしれません。聖書物語の人気ランキングを作るとしたら、確実に上位に入る話だと言いましたが、今日、お読みした「放蕩息子」のたとえの人気も絶大なものです。

少し長いたとえですが、今日は全文をお読みしました。三人の登場人物がいます。一般的にこの物語の父親は天地万物の創造主である神様を指していると言われます。兄と弟は人間を指していますが、この話を聞いてどちらの方に親近感を覚えましたか。少年時代に初めてこの話を聞いた時「あの弟は自分だ」とすぐにピンと来ました。これから何回かに分けてこの話を取り上げます。あとで聖書を手にしてもう一度読んでいただけたらと思います。

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