2017年8月28日 始業礼拝 「人よ、あなたの罪は赦された」
2017年8月28日始業礼拝
「人よ、あなたの罪は赦された」
ルカによる福音書5章17節~26節
17節
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
20節
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
26節
人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
屋根の瓦をはがし、脳梗塞の後遺症を患っている人を床ごと、込み合った部屋に釣り下ろしたというこの話は、教会的に言うとかなりポピュラーなものです。この漫画チックな光景は子供の注意を引くのに効果的で、子供教会の定番にもなっています。しかし、この話がイエス様の物語の中で重要な位置を占めるようになったのは、ドラマ性が豊かだからではなく、イエス様がある言葉を口にしたからです。「人よ、あなたの罪は赦された。」
ルカによる福音書では初登場ですが、この場にファリサイ派の人たちと、律法の教師たちがいました。この人たちは、これから何度もイエス様と対決するようになりますが、ここに登場したのは、無視できないほど人気が高まったイエス様にチェックを入れるためでした。「人よ、あなたの罪は赦された。」この言葉を聞いた彼らの頭の中に赤信号が灯りました。「ナザレのイエスの教えはやはり正統派とは違う。危険な思想の持ち主だ。マークする必要がある。」
脳梗塞の原因が解明され、医学の専門家ではなくても、おおまかな仕組みは理解できるようになりました。しかし、新約聖書時代の人たちは、突然やってくる脳梗塞による体の麻痺を、悪い事をした人に突然やってくる神様のバツだと考えました。人間ですから、皆、一つや二つは感心できないことをしています。イエス様の所に運ばれて来たこの人もそうでした。心を悩ませていたのは体が麻痺してしまったという事実よりも、罪を犯したため、突然、神様からこのような体にされてしまったというショックの方でした。
これを見抜いたのはイエス様でした。この人を助けるために最も必要なのは、自分が罪に定められ、神様からの罰として体の自由を失った人間だという屈辱と絶望感からの解放を与えることでした。だから、イエス様はまずこの言葉をかけました。「人よ、あなたの罪は赦された。」その言葉を素直に受け入れたこの人は、心ばかりではなく、硬直していた体までが反応し、動けなかったはずなのに立ち上がり、歩いて家に帰りました。
「あなたの罪は赦された。」これはキリスト教に入信するすべての人に向けられる言葉です。礼拝の式文に入れている教会もあります。ありがたいと思う人もいれば、納得行かないと言う人もいます。この言葉を受け入れることは即ち、自分が神の赦しにすがらなければならない罪人であることを認めることを意味します。もっと困ったことに、罪が赦されるなら、自分の家族を殺した醜い奴らも赦されるかもしれません。罪の告白はクリスチャンになる条件の一つで、ちょっと滑稽な話かもしれませんが、クリスチャンにはなりたいが、告白する罪が思い当たらないのでどうしようと、悩む人もいます。
罪の赦しは可能でしょうか。中東の文化背景を持つ人たちは、「赦し」という概念に強く反発する傾向があります。神様が稀に罪を赦すことがあっても、人は赦せないし、現実問題として何があっても人は赦しません。先祖の恨みをも、親の恨みをも、自分の恨みをも死ぬまで背負い、機会を狙って敵を討とうとします。中東ばかりではありません。東洋の国を見ても、罪を犯した人が何年も前にこの世を去ったとしても、その罪を子孫に負わせ続けようとする国があります。
韓国の人口の四分の一以上はキリスト教徒だと言われています。率先して赦しを実行する国民性が育っても良さそうな気がしますが、韓国人の多くは半世紀以上も前の出来事を赦すことに大変な苦労をしてきました。今でも、韓国の教会を訪問する日本のクリスチャンは挨拶の冒頭に、韓国国民に対する日本の過去の罪を謝罪するという習慣が続いています。二十年以上も前のことですが、アーサー・ホーランドという異色の牧師が東奥義塾に来て、礼拝であまりにも面白い話をしたので、生徒会がまた来るように招待し、義塾祭の一部として説教してもらうことになりました。
このアーサー・ホーランドのお母さんは日本人、お父さんはアメリカの元海兵隊員です。広島の原爆記念館に行くと大変な葛藤を覚えたと言います。被ばくしたのは日本。母親の国。原爆を落としたのはアメリカ。父親の国。どんな思いで原爆を受け止めたら良いのかわからないと言っていました。韓国に伝道旅行に行った時もどうしようかと考え込んだそうです。それまでの日本の牧師たちの例に従って日本の過去の過ちを謝罪すべきだろうか。
アーサー・ホーランドは次のように言いました。「私はイエス様の福音を伝えるために韓国に来たのであって、日本の過去を謝罪しに来たわけではない。お前たちもクリスチャンだろう。キリスト教は赦しの信仰だ。そろそろ日本の過去についてグダグダ言うのをやめて、いい加減に赦にしてやれ。」普通の日本人が言えば大変なことになりそうだし、私もこのような顔をしているから、この話題に触れても良いのかもしれませんが、アーサー・ホーランドのキャラが功を奏し、特に怒られることなく、伝道活動を続けることができました。
以前勤めていた学校でホームルームの時間は教室に入れなくなり、学校の入り口付近でウロウロしている生徒がいました。理由は以前、所属していた部活の仲間が、自分についてコソコソ何かを言っているので耐えられないということでした。色々と調べた結果、この生徒の主張の一部は当たっていましたが、被害妄想の部分もありました。それでも、加害者だと言われ、責められていた生徒は心配してくれて、教室に戻れるように、本人に謝罪すると言ってくれました。学年の先生がお手上げ状態になっていたので、私が間に入って二人を合わせました。
「これまで嫌な思いをさせてゴメンね。教室には戻って欲しい。」と、加害者ということになっていた生徒は言いました。教室に入れなくなっていた生徒は「謝罪は受け入れるが、絶対に赦しません。」と言いました。私は「それじゃまずいよ。相手が謝ってくれた以上は赦してあげる義務があるのよ。そうしないと謝った方の立場がなくなり、何も進まなくなるよ。」と諭そうとしましたが、「先生は私の気持ちが何もわからない。」と絶叫しながら取り乱し、その日は早退しました。
謝罪した生徒はそれを見て大粒の涙を流していたので、「君の謝罪は立派だったよ。こんな思いをさせてゴメンね。」と私の方から謝ることになりました。その後も、紆余曲折がありました。次の年は違うクラスに入れましたが、そのまた次の年は同じコースを選択したので、同じクラスに入り、何とか一緒にやっていましたが、しばらくは保護者を巻き込む、心に重くのしかかる状況が続きました。
赦すことは簡単なことではありません。人によって、恨む気持ちが自分の生き甲斐であるかのように絶対に放せないものになり、自分の心をも、相手の心をも固く縛り、いつまでも楽になることなく、いくら時間がたっても次の段階に進むことを妨げます。
「あなたの罪は赦された。」という言葉の裏に、「これから、あなたが赦す番だよ。」というメッセージが秘められています。自分を責めるモヤモヤした気持ちと、相手を責める苦々しい気持ちを捨て、新しく始まる二学期の学業に、心を楽にして、晴れやかな気持ちで向かうべきなのは今です。
今日から始まり、冬休みまで続く二学期の学校生活の上に神様の祝福があるように一緒にお祈りしましょう。
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