2017年5月22日 礼拝説教 「悪魔のささやき」
「悪魔のささやき」
ルカによる福音書4章1節~13節
13節
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
子供の頃持っていた聖書物語の絵本のこの場面に登場する悪魔には角としっぽがあり、いかにも悪そうな顔をしていました。しかし、この記事を読むだけでは、悪魔の目に見える姿はわかりません。妖怪のような物がイエス様の前に現れたのでしょうか。それとも、イエス様の心の中から悪魔の声が響いてきたでしょうか。もしかしたら、人間が近づいてきて、イエス様の耳元に何かをささやいたのかもしれません。
いずれにせよ、これらの誘惑は、神様に与えられた使命からイエス様の目をそらそうとするものでした。覚悟を決めてヨハネから洗礼を受けたイエス様に特別な力が備わっていました。しかし、その力こそ、最初の誘惑のもとになりました。
ローマの信徒への手紙に「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」と書いてありますが、イエス様に与えられた使命は、貧しく、虐げられていた人たちに仕え、彼らに神様の言葉を語り、彼らのために命をささげることでした。その覚悟があったからこそ、人の心を動かす特別な力を持つようになりました。
しかし、力の使い道について、イエス様にかなりの自由がありました。イエス様の頭に一つのアイディアがよぎったのでしょうか。それとも、怪しげな起業家が魅力的な商談を持ってきたのでしょうか。「あなたの持っている能力を活用して、金儲けができるよ。苦労することなく、楽に生活ができるようになるよ。」
罪を犯した結果、最初の人間、アダムに与えられた呪いは「お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前は顔に汗を流してパンを得る。」というものでした。悪魔の誘惑は苦労して食を得る、人間に与えられた宿命を覆すものでした。
「人類を縛ってきたアダムの呪いからお前は解放される。人を上手く使ったら働かなくてすむ。土地を転がしたら財産になる。売り買いを工夫すれば紙切れさえ純金になる。石に命じたらパンになる。」
イエス様はその誘惑を退けました。
次の誘惑は権力にまつわる物でした。本気で一般民衆の解放を願っていたイエス様には耳あたりの良い、合理性のある話だったはずです。「あなたには珍しい才能がある。でも、つてがないと世に出ることはないよ。俺について来たら必ず出征させてやる。いずれは頂点に立たせてやる。その代わり、俺の言うことは何でも聞くんだよ。」
最後の誘惑は三流芸能プロダクションを思わせる、やや次元の低いものでした。「舞台に上がって一発芸してみろ。その次はテレビ出演だ。あっという間にスターにしてやる。」
誘惑の声に耳を傾けていたら、ナザレのイエスが時の人になり、しばらくは有名になり、十字架にかかって死ぬこともなかったかもしれません。しかし、時代を超える普遍的な価値を生むことなく、歴史に埋もれ、次第に忘れられた存在になったことでしょう。つまり、ナザレのイエスが、救い主イエス様になることがなかったということです。
イエス様が受けた誘惑のスケールが大きく、社会経験の少ない高校生にはあまりピンと来ないかもしれません。しかし、すべての誘惑に共通しているのは、人を本来の道から遠ざけ、使命にまっすぐ進まないように脇道にそらそうとするところです。
生徒の皆様は一人一人、三年間という短い期間に、果たさなければならない使命があります。その使命を果たせるように保護者も、教員も、体を張ってサポートしてくれますが、誘惑は避けられません。いつか、どこかで必ずやって来ます。この三年間を後悔だらけで、無駄な時間にしようとします。
誰が見ても誘惑だとわかる誘惑もあれば、一見、とても良さそうなものに思える誘惑もあります。イエス様の頭に聖書の言葉が刷り込まれていました。誘惑に勝てた理由は、即座にそれを引用し、心の軌道修正ができたことです。心の軌道修正。どうすれば私たちにそれができるのでしょうか。東奥義塾に何年かいる生徒はその答えがわかるはずです。一年生はこれから学んでください。
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