2017年5月29日 礼拝説教 「生きるのに必要な神の言葉」
2017年5月29日礼拝説教
「生きるのに必要な神の言葉」
ルカによる福音書4章1節~4節
1節
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
2節
四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
3節
そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4節
イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
前回と同じ聖書の箇所ですが、今日はイエス様の誘惑そのものではなく、悪魔とのやり取りの中に登場する「人はパンだけで生きるものではない」という言葉に焦点を当てます。この言葉は多くの誤解を生んできました。「人が最も必要とする食料を軽視する過酷な教えだ。」とも言われてきました。いろいろな冗談のネタにも使われていきました。「パンだけではダメだよね。バターも塗らないと。」とか、「パンだけだと日本人は困る。やはりご飯がないとね。」
悪魔の誘惑に対するイエス様の答えはすべて、旧約聖書の引用でした。奴隷生活から解放されたイスラエルの民はエジプトから出て、食べ物のない荒れ野を渡っていました。彼らの内のある者は、「こんな所で飢え死にするくらいなら、エジプト人の奴隷として生きのびた方が良かった。」と言い始めました。その時、彼らに与えられたのは慣れ親しんだ主食、パンではなく、「マナ」という天から降ってくる奇跡的な食べ物でした。
神様は彼らの期待通りにパンを与えませんでしたが、「霞でも食え」と言って飢え死にさせるようなこともしませんでした。イエス様が引用した申命記に出てくる言葉の全容は次の通りです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
食料は大事だが、ただ食わせてもらえるだけで人間は生きていけません。13世紀の前半のヨーロッパにフレデリッヒ二世という強力な王様がいました。この王様はものごとを合理的に考えるのが好きで、様々な科学実験とも言える事をしました。中にはかなり残酷なものもありました。
王様はある疑問を抱きました。「赤ちゃんはみな、お母さんの話す言葉を聞いて育ち、同じ言葉を話せるようになる。では、まったく話しかけなければ何語を話すようになるだろうか。」現代の私たちなら「何も話さなくなるだろう」と言うでしょう。
しかし、当時の人たちの間に、「赤ちゃんに何も話しかけなければ、人間の最初の言語、アダムとエバが使った言葉を話すのではないかという考えがありました。フレデリッヒ二世はそれを確かめようと、多数の新生児を母親から取り上げて食料だけ与え、まったく話しかけないという実験を行いました。
結果として、この可哀そうな赤ちゃんたちはみな死んでしまいました。お乳だけでも、パンだけも、ご飯だけも、生きて成長して行くには足りませんでした。赤ちゃんに必要なのは、愛情たっぷりに話しかけたり、あやしたりしてくれる親とのふれあいでした。子供を大事にする東洋人には考えられないかもしれませんが、この過酷な実験を手掛けた王様はその後も続きました。しかし、結果は相変わらず悲惨なもので、西洋でこれは「禁じられた実験」と呼ばれるようになりました。
人を生かすのに、パンの他に必要な「神の言葉」はどのように人に伝わるのでしょうか。赤ん坊は愛に満ちた親の言葉を通して「神の言葉」を聞きます。成長して行くうちに、人は様々な方法でそれを聞くようになります。東奥義塾にいる私たちは毎日の礼拝で「神の言葉」を聞いて一日を始めす。
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