2017年5月1日 礼拝説教 「反省だけなら猿でもできる」

2017年51日礼拝説教
「反省だけなら猿でもできる」

ルカによる福音書31518

15節    民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアでは 
   ないかと、皆心の中で考えていた。
16節    そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授ける
が、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打
ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 
17節    そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻
を消えることのない火で焼き払われる。」 
18節     ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

ヨハネという預言者の人気が高まっていました。エルサレムにある神殿を自分たちの利益のために悪用するユダヤ教の指導者たちは一般民衆の信用を失っていました。その一方、ローマ軍に対して反乱やテロ行為を繰り返し、いつも無残な結果を招く過激派の行動にも、一般のユダヤ人は辟易していました。

そのような中で、ヨハネの活動とメッセージは新鮮で、民衆の心に希望の光を差し込むものでした。群衆の中から、ある囁きが聞かれ始めました。もしかしたら、この人は「メシヤ」かもしれない。

「メシヤ」。信心深いユダヤ人なら、だれもが待ち望む、特別なお方。旧約聖書の後半に登場する預言者たちが約束した理想の英雄。外国の軍隊を追い払い、かつて、ユダヤ人が最盛期を迎えたときに王様として君臨したダビデのような素敵なお方。このような噂が立つと、新たな反乱を恐れるローマ軍に命を狙われる結果を生むので、大変な危険を伴うもことでした。

ヨハネはすぐにその噂を否定しました。自分ではない。自分がやっていることはたいしたことがない。もっとすごいお方がやって来る。自分にはその方の履物の紐を解く、つまりその方の奴隷になる値打もない。

ヨハネはヨルダン川でバプテスマ、別名、洗礼という儀式を行っていました。今でもキリスト教徒になるための儀式として教会で執り行われるのは、このバプテスマです。自分の過去と別れを告げるため、これまでの悪い行いを告白し、衣服を脱いで川の水に全身を沈め、川から出て真新しい服を身に着ける。一つには、罪を洗い流して清くなること。もう一つは今までの自分とは違う、真新しい人間になることを意味する儀式です。

現在も、バプテスマ、または洗礼を受けることに大きな意味を感じる人がいます。しかし、ヨハネは言いました。「私が授けるバプテスマで使うのは所詮、ただの水だ。この水に特別な力があるわけではない。しかし、私の後に来る人は違う。その方が授けるバプテスマはただの水によるものではない。聖霊と火によるものだ。この方と出逢う人は徹底的に変えられてしまう。もう二度と同じ人には戻れないほど、変わってしまう。」

今から24年くらい前のこと、猿回しの村崎太郎と、猿の次郎の反省のポーズをヒントにできたチオビタドリンクのテレビ・コマーシャルがありました。その影響で「反省だけなら猿でもできる」というセリフが大流行しました。反省は繰り返すが、根本から自分を変える力がない人間を、猿に例えてバカにする話の展開は不愉快でしたが、心に響くものがありました。

聖書に繰り返し登場する教えは、反省しても変わる力のない、人間の罪深さのことです。この教えは嫌になるほどしつこく表れ、何度も強調されます。しかし、それと同時に、このどう仕様もない、情けない人間を愛し、変わる力を与えて下さるお方を私たちに紹介するのも聖書です。

ヨハネという人物は間もなく表舞台から退き、ヨハネに代わって違うお方が現れようとしていました。出逢った人たちに感動だけで終わらない、変化をもたらす力を与えるお方。聖霊と火でバプテスマを授けるお方。一体、何のことで、誰のことを言っていたのでしょうか。

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