2026年5月20日礼拝説教 「気が変になった男」
2026年5月20日礼拝説教
「気が変になった男」
マルコによる福音書3章20節~21節、31節~35節
20節
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21節
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
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31節
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32節
大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
33節
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
34節
周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35節
神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
イエス様の名声が広がるなか、家族はどう思ったのでしょうか。一家の長男が、急に注目の的になっている事を誇らしげに思う余裕はなかったようです。イエス様の言動は彼らの心に不安を掻き立て、家族会議の末、一つの結論が出ました。「お兄ちゃんは気が変になった。このまま放っておくと大変なことになる。無理にでも家に連れて帰るしかない。」
「種蒔きの例え」に見られるように、イエス様の教えを受け入れない人たちが大勢いました。しかし、冷たい視線を向ける人たちの中に、最も親しい関係にある母親や兄弟が含まれていたことを不思議に思いませんか。兄弟たちはイエス様を取り押さえに来ましたが、目当てのお兄さんは、おびただしい群衆に囲まれ、近づき様がありませんでした。
イエス様は寝食を忘れて神様から与えられた使命を果たそうと必死に努力している最中で、邪魔しに来た家族の相手をしている場合ではありませんでした。「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます。」この知らせを耳にしたイエス様の態度は毅然としたものでした。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」例え家族であろうと、母親であろうと、まっしぐらに目標に向かうイエス様の気持ちをそらし、決意を弱めようとする人たちと関わるつもりはありませんでした。
イエス様の言葉を総合して見ると、家族との融和にあまり高い優先順位をつけていなかったことがわかります。旧約聖書にあるモーセの十戒の五番目の戒めは「あなたの父母を敬え」であり、守る人が長生きするという、特別な約束付の戒めになっています。聖書は決して両親やご先祖様をないがしろすることを奨励している訳ではありません。しかし、儒教の原典とも言える論語に書いてある、「亡くなってから三年たつまで親のやり方を変えてはならない」という教えとはかなり違います。
両親や先祖を敬うことについて聖書は絶対服従の立場をとっていません。むしろ、わかりやすく言うと、次のように表現できると思います。「先祖を敬う最も優れた方法は、神様から与えられた使命に従うことであり、先祖が決して恥と思うことのない生き方をすることである。」志を全うする人は初めから周囲の人たちの賛同を受けるとは限りません。「皆様の応援があったから勝てました。」は優勝インタービューのセリフとして聞こえは良いが、応援は勝てそうになってから始まることが多く、最初から期待できるものではありません。
その後、イエス様の家族はどうなりましたか。彼らにとって大きな転機になったのはイエス様の十字架と復活でした。キリスト教会の誕生の瞬間を描いている使徒言行録の初めを見ると、イエス様の母マリアとその兄弟たちは、弟子たちと一緒にイエス様の教えに従って次の行動を始めようとしていました。イエス様の兄弟ヤコブはエルサレムの教会の中心人物になり、新約聖書の後ろの方にあるヤコブの手紙は、弟子ヤコブではなく、兄弟ヤコブが書いた物だと言われています。
神様から使命が与えられても、一番近くにいる人たちに反対されることがあります。家族や親しい友人の理解がなければ前に進めないと思うかもしれません。しかし、いずれはすべてのことがあらわになります。信念を通してブレなければ、家族の理解と尊重を得られる日が必ず来ます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」
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